生活 せいかつ
とじる
2022-10-01: 「原店前の給水塔」周辺の画像を追加しました。
2020-09-03: 食料品・雑貨店「原店」の記述に内容を追加しました。
2017-07-25: 内容をよりくわしくしました。 「地図上の位置」は現在の地図で示しています。

 ゆりストアの新聞(しんぶん)チラシに、百合ヶ丘駅前(えきまえ)におみせができてから、2010年(H.22)で50年になるということがかいてありました。  チラシには、ゆりストアの上の階(かい)から百合ヶ丘駅(えき)を写(うつ)した写真(しゃしん)がのっていました。  駅の向(む)こう側(がわ)に、たんぼが見えているのが印象的(いんしょうてき)でした。

 ゆりストアは百合ヶ丘駅(えき)ができた1960年(S.35)からおみせをひらいています。  私は、1963年(H.38)の2月にこの町(まち)にひっこしてきました。  そのころの百合ヶ丘駅前(えきまえ)には、ゆりストアのならびの今とおなじ場所(ばしょ)に、すでに商店街(しょうてんがい)ができあがっていました。  でも、お店(みせ)のしゅるいは今とはちがっていました。

siteLocation :ゆりストア百合丘本店

 そのころの百合ヶ丘駅前にはこんなお店がならんでいたのをおぼえています。(たくさんある中のごく一部です)
 • 菓子屋(かしや) 百合丘キャンディーストア(森永製菓の製品)
 • 本屋(ほんや) 大塚書店
 • 八百屋(やおや) 美登里屋(みどりや)
 • 床屋(とこや) コロナ
 • 布団屋(ふとんや) ころもや
 • 酒屋(さかや) 吉澤酒店(よしざわさけてん)
 • 電気屋(でんきや) 電化(でんか)のヨシザワ
  交番(こうばん)も、昔からずっといまの場所(ばしょ)にあります。

siteLocation :百合ヶ丘駅前のお店

 そのなかでも、たべものを中心(ちゅうしん)にいちばんよくゆくお店はゆりストアでした。  コンビニはまだ世の中にでてくる前(まえ)で、スーパーの三和(さんわ)もありませんでした。

ゆりストアは、2020年にクリエイトエス・ディーの100%子会社になりました。  地元で創業(そうぎょう)した百合丘の老舗(しにせ)スーパーが横浜発祥(はっしょう)のドラッグストアに取り込まれてしまいました。  王禅寺のゆりストアは、一部ドラッグストア化して便利になったかもしれません。  一方、千代ヶ丘のゆりストアは2022年9月30日に閉店してしまいました。  すぐ近くにすでにクリエイトのドラッグストアがあるので、跡地(あとち)がどうなるのか気になるところです。

 駅からバスどおりを公団坂上(こうだんさかうえ)にむかって登(のぼ)ってゆくと、ちいさな商店街(しょうてんがい)がいくつかありました。  こんなおみせがありました。

  • すみれ堂文具店(ぶんぐてん)♦ 百合小の南側(みなみがわ)の階段(かいだん)をあがったところのバス通(どおり)り沿(ぞ)いにありました。  数年前(すうねんまえ)までひらいていました。(2010年現在)  百合小にかよっていたころには、よく文房具(ぶんぼうぐ)を買(か)いに行きました。

    夏の昆虫採集(こんちゅうさいしゅう)セットなんていうのも売っていました。 虫をとってきて「殺して」箱の中にその名前や採集した場所・日付などを書いた札と並べて標本(ひょうほん)にするのです。
    現在では、大学や博物館などで使う学術的(がくじゅつてき)なものは別として、学習の一部として虫を殺すのは好まれないし、学校でもそういう教育はしていないと思います。  害のない虫をわざわざ捕まえて命をうばうことはないのです。

    そんなセットの中には虫を殺す毒薬(どくやく;正体はわかりません。人に害のあるものではなかったはず)と針のついた注射器(ちゅうしゃき)がはいっていました。ぶっそうです。
    私がすみれで買った昆虫採集セットの注射針がつまっていたことがあります。  お店に持っていって、「使えない」と店のオヤジに説明しながら注射器のピストンを押すと、つまっていた針がポンッとはずれて、オヤジの方に飛んでゆきました。
    運良く、私が放ったミサイルはオヤジにはあたりませんでした。 めでたし、めでたし。
    (セットには毒薬とともに殺した虫をながもちさせる防腐剤(ぼうふざい;くさりどめ)も入っていました。いまから考えると、小学生にしてずいぶんとオソロシイことをしていたんだなと思います)

    siteLocation :すみれ堂文具店
  • 三ツ輪星(みつわぼし)マーケット♦ 現在(げんざい)のサンフレッシュのある場所(ばしょ)で、 いろいろなお店が1つの屋根(やね)の下で商店街(しょうてんがい)を作っていました。

    その中で、八百屋(やおや)の宮野青果店(みやのせいかてん)だけが、スーパーマーケットサンフレッシュとして 2010年現在(げんざい)もつづいています。

    (なつ)にマーケットのいちばん奥(おく)にあった食堂(しょくどう)で食(た)べたかきごおりを思(おも)い出します。  すごい量(りょう)の氷(こおり)がてんこもりでした。
    siteLocation :三ツ輪星マーケット

    ❖ サンフレッシュは2012年11月末に閉店しています
    ❖ こちらもごらんください ➤建物の移り変わり

    地図により「三ツ輪星マーケット」と「三ツ輪星ストアー」の2つの書き方がありました。  私の記憶(きおく)では「三ツ輪星マーケット」なのですが…

  • ゆりストア弘法松店(こうぼうのまつてん)♦  ゆりストアには本店のほかに弘法松のバス停前にお店があった時期(じき)もあります。
    はっきりおぼえていませんが 1970年ころの開店でしょうか。(年はかなりあやしいです)  その後、弘法松店は閉店し、現在その場所にはデニーズレストランがあります。 
    siteLocation :ゆりストア弘法松店
    ❖ 1975年撮影の航空写真に
    弘法松店が写っています。➤
    (中央やや右下)

 駅からちょっと離(はな)れた百合丘第二団地に住む人たちのために、第二団地の入口にもつぎのようなお店が集まった商店街がありました。  2000年を過ぎたころ(?)、第二団地101号棟跡(あと)にはコンビニができ、松葉浴場(まつばよくじょう)は営業を続けています。  しかし、現在、その他のお店の多くは閉店し、跡地(あとち)には住宅(じゅうたく)ができています。

  • 日之出(ひので)マーケット♦  第二児童公園(だいにじどうこうえん)のななめ向(む)かい、 クリーニング屋(や)のならびの、今はマンションがあるところにありました。

    ここはアーケードになった商店街(しょうてんがい)でした。  電気屋(でんきや)、肉屋(にくや)、本屋(ほんや)、すし屋、とんかつ屋、 米屋(こめや)、履物屋(はきものや)、小料理屋(こりょうりや)などがありました。
    訂正:当初、「床屋」「とうふ屋」も書きましたが、これらはアーケードの外にとなりあっているお店でした)

    ここの履物屋「ふじい」では、傘(かさ)の骨(ほね)が折(お)れたりしてこわれると、修理(しゅうり)をしてくれました。  今ではあたらしく買(か)ったほうが安(やす)いですね。  直(なお)せば使(つか)えるのにもったいないのですけれど...

    いっぽう、このごろは自分(じぶん)でなおすための部品(ぶひん)も売られるようになっています。  大量消費(たいりょうしょうひ)の時代(じだい)からまた少しもどっているのでしょうか。
    siteLocation :日之出マーケット
  • 富士塚(ふじづか)商店街(しょうてんがい)♦  今のみずき街(まち)入口の十字路(じゅうじろ)のまわりに広がっていました。  ここには、酒屋(さかや)、八百屋(やおや)、金物屋(かなものや)、牛乳屋(ぎゅうにゅうや;はいたつをしてくれる)、 おもちゃ屋、パン屋、とうふ屋などがありました。
    siteLocation :富士塚商店街の十字路

    第二児童公園のとなりには、団地(だんち)とにているコンクリート作(づく)りで、 棟(とう)の番号(ばんごう)がふってある二階建て(にかいだて)のたてものがありました。  130号棟と131号棟の番号がふられた富士塚名店街(ふじづかめいてんがい)です。

    たてものの1階(かい)が商店(しょうてん)で2階が住居(じゅうきょ)になっていました。  いわゆる「ゲタばき住宅」とよばれていたたてものです。  これら2棟も何年も前(まえ)にとりこわされました。
    siteLocation :富士塚名店街 131号棟
    siteLocation :富士塚名店街 130号棟

    この中にあった酒屋/食料品店(さかや/しょくりょうひんてん/「生田ストアー」)が、いまのみずき街入口、101号棟跡のコンビニを営業しています。  生田ストアーの跡地(あとち)はしばらく空地(あきち)でしたが、2009年(H.21)にはあたらしい住宅(じゅうたく)が建(た)ち、 売り出されていました。 toUpperRight
  • fromLowerLeft  銭湯(せんとう)の松葉浴場(まつばよくじょう)は、百合丘団地ができたころからありましたが、今も元気(げんき)です。  松葉浴場となりのパン屋 百合丘ベーカリーのクリームパンがとてもおいしかったのですが、ずいぶん前(まえ)にお店をしめてしまいました。
    siteLocation :松葉浴場
  • ❖ 101号棟跡のコンビニ スリーエフ も2017年の秋〜冬に閉店してしまいました。

    ❖ 百合丘ベーカリーとその西どなりで何年か前まで営業していた宇田川豆腐店の建物は、2023年の7月に解体が始まりました。 あとに何ができるのかきょうみあるところです。

 百合丘には、急に数が増(ふ)えた住民(じゅうみん)のための医院・病院(いいん びょういん)もありました。  次のような医院・病院です。  これらの医院・病院はすでに閉じてしまったものもあります。 先生のお年のためでしょう。  しかし、百合丘の人口(じんこう)はその後も増え、町には新(あたら)しい医院(いいん)が多(おお)くできています。

  • 星外科(ほしげか)♦  百合小の校庭(こうてい)の南側(みなみがわ)を出たところにありました。 (いまは駐車場(ちゅうしゃじょう)) 体育の時間(たいいくのじかん)にケガをすると、ここにつれていってもらうこともありました。
    siteLocation :星外科
  • 百合ヶ丘中央病院(ちゅうおうびょういん)♦  百合小校庭(こうてい)の前(まえ)、 百合ヶ丘シティタワーのところにありました。 入院(にゅういん)のできる大きな病院(びょういん)で、 いろいろな病気(びょうき)をみてくれました。

    ここは1990年代(ねんだい)くらいまであったとおもうのですが、いつのまにか1階(かい)にクリニックのあるマンションにかわっていました。(マンションの完成は 1997年)
    siteLocation :百合ヶ丘中央病院
  • 百合ヶ丘診療所(しんりょうじょ)♦  今もバス停に名前を残す団地の管理事務所(かんりじむしょ)と並んでたてものがありました。  当時の日本住宅公団が、団地を作ったのに合わせて住民のために用意した診療所だと思います。  その後、団地はサンラフレ百合ヶ丘に建て直されましたが、すぐ近く(サンラフレ百合ヶ丘7号棟内)で診療所は続いています。(医師(いし)は代わっていると思います)  1960年代の百合小では、ここの朝日先生が校医として健康診断(けんこうしんだん)などをしてくださいました。
    siteLocation :百合ヶ丘診療所
  • すどう医院(いいん)♦  第二児童公園(だいにじどうこうえん)のバスどおりの向(む)かい、 今は麻生キリスト教会(きょうかい)があるところにありました。

    内科(ないか)と小児科(しょうにか)をみてくれて、往診(おうしん;いえまでみにきてくれること)もしてくれました。 私も熱(ねつ)を出したときに、すどう先生(せんせい)に家(いえ)まできていただいたことがありました。
    siteLocation :すどう医院

上下水道(じょうげすいどう)と都市(とし)ガスは、百合丘団地では整(ととの)っていたとおもいます。  しかし、まわりの町(まち)ではまだ使(つか)えないところがありました。

たとえば、私の住(す)んでいた生田(いくた;今の東百合丘)では、上水道はなく井戸水(いどみず) をつかっていました。  井戸水とはいっても、給水塔(きゅうすいとう) があり、電動ポンプでくみあげてタンクにため、ふつうの水道のように各家(かくいえ)に配(くば)っていました。 

当時は、この給水塔から東に200mほどのところにも、新しくできた中台住宅地(ちゅうだい じゅうたくち)に水を配る、同じような井戸水の給水塔がありました。

井戸水は塩素(えんそ)のにおいがなく、夏(なつ)は冷(つめ)たかったです。  そのまま飲めば、水道水(すいどうすい)よりおいしかったかもしれません。  しかし、消毒(しょうどく)していないということで、飲(の)み水は湯冷まし(ゆざまし=いちどわかしてしょうどくしてからさましたもの)にしていました。

断水(だんすい=水がたりなくなり、でなくなる)した記憶(きおく)はありませんが、 台風(たいふう)などで大雨が降(ふ)るとしばらくの間は蛇口(じゃぐち)から出る水は濁(にご)っていました。  たくさんの雨水が地下水の流れる地層(ちそう)にはいりこみ、かきまぜて細かい砂をまきあげていたのでしょうか。

生田では、下水道(げすいどう)はいわゆる「どぶ」で、道路(どうろ)の両脇(りょうがわ)のふたのない側溝(そっこう)に下水(げすい)を流(なが)していました。  トイレの水は、各家(かくいえ)に備(そな)え付(つ)けられた浄化槽(じょうかそう)できれいにしてから、側溝に流(なが)していました。

ある日、窓をあけて側溝を見下ろすとどぶねずみが高速(こうそく) でかけぬけてゆく、なんていうこともありました。

ガスはプロパンガスで、家(いえ)の裏(うら)にはおおきなガスボンベが取(と)りつけられていました。

»  ウェブ上にある「プロパンガスボンベ」の画像 

 上下水道(じょうげすいどう)と都市ガスは、その後、徐々(じょじょ)に使えるようになってゆきました。

【浄化槽】[じょうかそう] 家庭(かてい)からでる汚(よご)れた水(トイレ、ふろ、キッチンなど)を、側溝(そっこう)に流(なが)す前(まえ)に、細菌(さいきん)などの力(ちから)できれいにする設備(せつび)

家の裏庭(うらにわ)などに埋(う)められている大きな入れもので、この中で細菌が時間をかけて汚(よご)れを分解(ぶんかい)します。  汚れがとれた水は薬で消毒(しょうどく)し、きれいになった水が側溝に流(なが)されます。

»  ウェブ上にある「浄化槽」の画像 

その後、汚れた水をそのまま集める下水管(げすいかん)が各家庭(かくかてい)につながり、浄化槽は必要(ひつよう)なくなりました。  集(あつ)められた汚れた水は、下水処理施設(げすりしょりしせつ)でまとめてきれいにされます。

現在(げんざい)、この周辺(しゅうへん)の水は上麻生6丁目(柿生駅近く)の「麻生水処理センター」(あさおみずしょりせんたー)で処理されています。
現在のバス停(てい)「原店前」(はらみせまえ)の近(ちか)くにあった井戸水(いどみず)の給水塔(きゅうすいとう)です。 

ここからまわりの家(いえ)に水が配(くば)られていました。  給水塔の向かいに「原店」(はらみせ)という食料品・雑貨店(しょくりょうひん ざっかてん)があり、お店が井戸水の管理(かんり)もしていました。

siteLocation ←写真撮影位置
  さつえい:1963年4月5日(S.38)

タンクのふもとにはモーターで動くポンプがおいてありました。  各家(かくいえ)で水を使ってタンク内の水が減(へ)ると自動的(じどうてき)にポンプが動いて地下水(ちかすい=井戸水)を吸い上げ、タンクにためるようになっていました。

このへんは尾根(おね) が交わる頂点で、標高(ひょうこう)も100m以上あるのですが、それでも井戸水が使えたのですね。  そして、一番高いところに配水タンクを置くのは合理的です。

上に書いたように、このタンクから東に二百数十メートルのところにもおなじく給水塔があり、まわりの家に水をくばっていました。  もう一つのタンクの跡(あと)はずっと空き地でしたが、最近(さいきん; 2017)になってなにやら工事が始まりました。  家がたつのかなと思いましたが、せまい土地は整地された後は空き地のままです。(2022年現在)

タンクに水をくみあげるモーターが設置(せっち)されたポンプ小屋があったようです。  記憶があやふやなのですが、写真では電気メーターがとりつけられた小さなたてものがあるのでそうだと思います。

わかりやすいように画像にいろいろと説明をつけました。  4人のこどもたちの1人は私の妹です。 顔はヒミツ。

この画像は百合丘小学校の同窓生のTSさんからご提供いただいたものです。このページをご覧いただいて、 画像とともにメールでご連絡いただきました。
感謝です。 (2022年9月)

siteLocation ←写真撮影位置

❖クリック/タップで拡大 ❖説明あり/なし切替あり  さつえい:1964年(S.39)

井戸水には殺菌・消毒(さっきん・しょうどく)はおこなわれていませんでした。  風呂や手洗いなどはそのまま使いましたが、飲む水は一度やかんで沸騰(ふっとう)させた湯冷ましです。 もちろん、ジャパネットのウォーターサーバーもなければ、ペットボトルの水もありません。  ところで、アメリカでは現在でも水道の水は飲めないのが普通で、飲み水はおっきなボトルの水をスーパーなどで買ってきます。  当時の川崎市生田は「アメリカ並み」だったのです。 それにしても、今の水事情はすごいナ。

台風などの豪雨(ごうう)があると、井戸水はこまかい砂でにごりました。 半日(?)くらいでしょうか、水のにごりがなくなるまで、水道を流しっぱなしにしたりしました。  でも、そのような状態は何年かのちには上水道の開通で解消(かいしょう)されました。  川崎市は、歴史的に水道の普及・改良に力を入れているようです。 2022年現在では、何年も前から水道管の耐震化(たいしんか)工事がすすんでいて、写真の場所の周辺もすでに耐震化工事が終わっています。

【原店 -はらみせ- のはなし】(2022-10 更新)

写真の1963〜4年にはまだバス停はありません。(バス停ができたのは、1970年より後だったと思いますがよくおぼえていません)  原店はすでに閉店しており「原店前」のバス停の名前としてのみ残っています。  原店の跡(あと) には、高齢者(こうれいしゃ)向けデイサービスが入っていましたが、その後建物もこわされて、一般の住宅が建ちました。 

✚ 原店は2006年(H.18)に閉店しています。(関係者に確認しました)

原店前バス停も、新たな住宅建設にともない、下り(聖マリアンナ医大病院方面)のみが200mほど離(はな) れた馬の背尾根道上に移設(いせつ) されました。  2019年11月のことです。  もはや「原店前」でもありません…

ちなみに「原店」は1876年(M.9)に、飴(あめ)や一杯酒を売る茶屋として開店したとのことです。  当時は周りが一面の原っぱだったそうで、人々が「原店」と呼ぶようになったとのことです。  たしかに宅地開発が1960年前後にはじまるまで、まわりには畑と雑木林しかありませんでした。
私がこちらに引っ越してきた時は「原店」は正式な屋号(やごう;おみせのなまえ)で、看板(かんばん)にでかでかと描かれていました。

✚ 原店ではジューキパンの食パンや菓子パンを売っていました。  しっかりと看板にジューキパンと書いてありました。
魚肉ソーセージを 1/4 の縦割(たてわ)りにしてパン生地で包んで揚げたソーセージパン(なまえは不確か)はおいしかった。  まるまる1本ではないので、ソーセージにカドがありました。
ジューキパンは今や世界的な工業用ミシンのメーカー JUKI のパン部門です。  第二次世界大戦中に武器を作っていた機械メーカーが、戦後にパン製造を始めたようです。  今はパンは焼いていませんが、かなり長い期間にわたっておいしいパンを販売していました。  「ジューキ」が「重機」由来(ゆらい;そういうなまえになったわけ)だったとはずいぶんと後になってから知ったことです。

原店の裏手(北側)に長らく残っていた3本の大楠も 2020年7月に切り倒され、周辺の緑は失われてしまいました。
何か残念でもあります。 関連記事➜ 「塔之越の大楠」

「原店」参照資料:「川崎市北部 多摩区・麻生区の町名の移り変わり」報告書(2018年3月 日本地名研究所[川崎市の委託])