小田急バス おだきゅうバス
|
とじる |
当時(とうじ)の川崎市生田に住む私は、低学年(ていがくねん)のころはバスで小学校(しょうがっこう)までかよっていました。
1年生(ねんせい)のときか2年生のときまでは、百合ヶ丘駅前(えきまえ)から 出発(しゅっぱつ)する小田急バスの終点(しゅうてん)は今の「百合ヶ丘三丁目」でした。 そして、終点のバス停(てい)の名前(なまえ)は「公団坂上」(こうだんさかうえ)でした。 2年生の途中(とちゅう)までは百合小はなかったので、西生田小(にしいくたしょう)にかよっていました。
通学用(つうがくよう)のバスがあって、公団坂上から百合ヶ丘駅前をとおり、 さらに先の細王舎前(さいおうしゃまえ)までいっていました。
通学用以外では、百合ヶ丘駅前(駅の南側(みなみがわ))から出るバスは、 公団坂上行きの一系統(いちけいとう)だけだったとおもいます。
バス停の「弘法の松」(こうぼうのまつ)は、現在(げんざい)の弘法の松交差点(こうさてん)のところにあり、 現在の「弘法の松」のバス停のあたりには「第二団地前」(だいにだんちまえ)というバス停がありました。 2つのバス停の間があまりにも近(ちか)いので、その後「弘法の松」1つになったのだと思います。
終点の公団坂上(今の百合ヶ丘三丁目)では、坂(さか)を上(のぼ)ってきたバスがお客(きゃく)をおろしたあと、 左側(ひだりがわ)の団地のほうに入る道に曲(ま)がります。 すると、女性の車掌(しゃしょう)がおりてきてバスのうしろに回り、笛(ふえ;よこから見ると「6」の字の形ににているホイッスル;呼子笛(よびこぶえ)という)を 「ピッ、ピーッ!、ピッ、ピーッ!」と吹(ふ)きながら、 運転手(うんてんしゅ)が安全にバックできるように指示(しじ)を出します。 笛が「ピーーーッ!」と長く鳴ったらそこでバックはおしまいです。
こうして、バスが方向(ほうこう)を変(か)え、また百合ヶ丘駅にむかって坂をおりて行きました。 通行(つうこう)する車の数(かず)も少なかったので、カーブになっているあの場所(ばしょ)で方向転換(ほうこうてんかん)ができたのだと思います。
このカーブは曲がりがけっこう急で、坂道なのに先がみえません。 じっさいに、坂をくだってきた乗用車がここでバス停に止まっているバスを無理に追いこして、坂をのぼってくる車と正面衝突(しょうめんしょうとつ)したのを見たことがあります。 急ブレーキのおかげで車の中の人のけがは大きくなかったようですが、車の前はつぶれていました。
私が低学年のころは、バスの車体(しゃたい)の前が犬の鼻(はな)のようにとびだしてそこにエンジンががはいっている「ボンネットバス」もはしっていました。 バス代(だい)はこども 10円、おとな 15円でした。
バスには男性の運転手と、もうひとり女性の車掌(しゃしょう)が乗(の)っていました。 バス代は定期券(ていきけん)をつかうか、車内(しゃない)で切符(きっぷ)を買(か)います。 お金(かね)を料金箱(りょうきんばこ)に入れるのではなく、わざわざ切符を買うのです。
車掌は切符をうることや、バスの中程(なかほど)にある手動(しゅどう)ドアの開け閉め(あけしめ)で、 おおいそがしです。 お客に「もう少しつめてください」と言ったり、降り乗りの時の安全確認(あんぜんかくにん)も車掌のしごとです。
バスのドアは左側まんなかの1つだけで、乗るのも降りるのもそのドアを使いました。
その後(ご)、バスの終点は現在の団地坂上(だんちさかうえ)、西長沢(にしながさわ)、 聖マリアンナ医科大学(せいマリアンナいかだいがく)と次々(つぎつぎ)にのびてゆきました。
さきに書(か)いたように、私が西生田小に通(かよ)っていたころ(1963〜64年(S.38〜39))は、 当時(とうじ)の「公団坂上」から百合ヶ丘駅前、津久井道(つくいみち)を通(とお)って 細王舎前(さいおうしゃまえ)に行く通学バスを使(つか)っていました。
でも、細王舍前から西生田小まではさらに700メートルほどあります。 バスを降(お)りてから、このみちのりを歩(ある)かないといけませんでした。
バスが通るには道がせますぎたのでしょうか。 なぜバスが西生田小までのせてくれなかったのかはいまも(わたしの中で)ナゾです。
百合小ができたあと、どのくらい後になってからか覚(おぼ)えていませんが、この路線(ろせん)はなくなりました。
細王舎前 バス停:いまの高石歩道橋のすぐ近く。ガソリンスタンドのあるところ。(高石歩道橋は 1982年(S.57) 3月に完成)
日本全国に名を知られた大きな会社で、「川崎市 細王舍工場」だけで郵便が届(とど)いたといいます。 現在(げんざい)でも歩道橋横に記念(きねん)の石碑(せきひ)がのこっています。
1960年代ころまでは、川崎の北部(ほくぶ)では農業(のうぎょう)が盛んで、 稲(いね=おこめ)、麦(むぎ)、梨(なし)、桃(もも)、ぶどう、柿(かき) などがさかんに作られていました。
そして、田畑(たはた)や果樹園(かじゅえん)がたくさんある農業地帯(のうぎょうちたい)が だんだんと住宅地(じゅうたくち)に変(か)わりつつあるところでした。 生田にはまだ牛を飼(か)って牛乳(ぎゅうにゅう)をしぼったり、豚(ぶた)をかっている 農家(のうか)もあったのです。 私も家の近くの農家(のうか)で、牛のお乳(ちち)をしぼらせてもらったことがあります。
➜ 細王舎のはなし
写真(しゃしん)は登校時(とうこうじ)のもので、発車待(はっしゃま)ちの百合ヶ丘駅ゆきのバスが後(うしろ)に見えます。 公団坂上が終点(しゅうてん)で、バスの右側(みぎがわ)に見える空き地(あきち)が バスの「折り返し場」(おりかえしじょう)になっていました。
さつえい:1966年3月(S.41)
左のフェンスの中は水資源開発公団(みずしげんかいはつこうだん)の百合ヶ丘住宅(じゅうたく)で、 ここに住(す)む百合小の児童(じどう)もいました。 こどもたちは意味もわからず「みずしげん」と呼んでいました。 まだ道の両側(りょうがわ)に歩道(ほどう)はできていません。
その後、百合ヶ丘住宅はたてかえられました。 さらに、2018年現在、ながい間にわたってここに人はすんでいません。 まわりにかこいもでき、とりこわしも近いようです。
水資源開発公団:その後、2003年から独立行政法人水資源機構(みずしげんきこう)
当時のなまえ「公団坂上」(こうだんさかうえ)は、「団地坂上」に変わっています。
さつえい:2010年11月24日(H.22)
奥(おく)に見えるバスの向こう側(がわ)、坂(さか)を百合ヶ丘駅のほうに少し降(お)りたところの左側に、 「王禅寺見晴し公園」(おうぜんじみはらしこうえん)があります。 小さな公園ですが、名前の通りのすばらしい見晴らしです。
空気のきれいな季節には夕日を見たり、写真をとったりするひとたちもやってきます。
公園からは、町田,横浜(よこはま)方面、丹沢(たんざわ)の山々(やまやま)から、 箱根、富士山(ふじさん)、南アルプスの山々(静岡県北部(しずおかけんほくぶ))まで見わたせます。 2017年春に一段(いちだん)たかくなっている「展望台」の案内板(あんないばん)が新しくなり、遠くの山々の名前がわかりやすくなりました。
→ 王禅寺見晴し公園
「坂上」はこのあたりでは一番高い場所(いちばんたかいばしょ)の1つで、北側(上の写真の右側(みぎがわ))の 住宅地(じゅうたくち)の中には「八幡森跡 海抜120メートル」 (はちまんのもりあと かいばつ120メートル)の看板(かんばん)がのこっています。
百合丘団地とその周りの住宅地が開発される前、1950年代までは、この場所の北側100mほどのところに標高128mの丘があったのですが、 宅地造成(たくちぞうせい)のために切りくずされてしまいました。
なお、百合ヶ丘配水塔のある小山の上は、地図によると標高約123mです。
その場所(ばしょ)の高さを示すことばには、もう一つ「標高」(ひょうこう)があります。 東京湾(とうきょうわん)の平均海面(へいきんかいめん)からはかった高さのことです。
東京湾平均海面の位置は長い間には変わってゆくので、実際(じっさい)には過去(かこ)の 平均海面をもとに地上に「日本水準原点」(にほんすいじゅんげんてん)を作り、 高さの基準(きじゅん)としています。 「日本水準原点」は強固(きょうこ=かたくてじょうぶ)な建造物(けんぞうぶつ=たてもの)です。
今は、海抜よりも「標高」(ひょうこう)を示すことが多いようです。 ただし、海の近くで津波(つなみ)にそなえてその場所の高さを示す表示板(ひょうじばん)には、 近くの海からの高さを示す「海抜」がよく使われています。
2つのちがいは、たぶんおおくの人はきづいていないでしょう。
そして、2種類の高さの数字は便利(べんり)のためにあまり区別せずに使われています。
しかし、正確(せいかく)にはちがいがあります。
➜ 2つの違い
➜ 高さの基準:日本水準原点
この日本水準原点をもとに、全国に基準点(電子基準点、水準点、三角点)(でんしきじゅんてん、すいじゅんてん、さんかくてん)が設(もう)けられ、
各地の標高をミリメートル単位で測(はか)ることができます。
➜ 弘法松公園に三角点があります