校舎 こうしゃ
とじる
2018-08-27: 文章を加え、ページの書式を整えました。

 百合小の校舎(こうしゃ)は、北(きた)と南(みなみ)に2棟(とう)があり、間がわたりろうかでつながれています。  2つの校舎は初めからあったのでしょうか。 どうもはっきりおぼえていません。 そこでいろいろな写真(しゃしん)をしらべてみました。

 国土地理院(こくどちりいん)が公開(こうかい)している1964年(S.39)5月の航空写真(こうくうしゃしん)では、 まだ北側(きたがわ)(=小田急線の近く)の校舎の一部だけしかみえません。  手元にある 1966年(S.41)6月の写真(しゃしん)だと南側校舎(みなみがわこうしゃ)の東側(ひがしがわ)ができあがっています。

 さらに、手元の1968年(S.43)の季節(きせつ)がちがう2枚(まい)の写真には、 作っている途中(とちゅう)の部分と、できあがったあとの南側(みなみがわ)の校舎の 西側部分(にしがわぶぶん)がうつっています。

 百合小が開校(かいこう)した1965年(S.40) には、北側(きたがわ)の校舎だけしかなかったのです。  そのあと、1966年(S.41)から1968年(S.43)の間(あいだ)に、校舎をつぎたして大きくしていったようです。

 このあとに手元にある写真で校舎(こうしゃ)が写(うつ)っているものを、2枚のせました。

 1960年代には児童(じどう)の数(かず)がどんどんふえていって、 教室(きょうしつ)が足(た)りなくなっていました。  1960年代から70年代には、百合丘のまわりの山や丘や田畑(たはた)は次々(つぎつぎ)にけずられて 新しい家がたちました。

 百合小ができる前に完成していた百合丘団地(今のサンラフレ百合ヶ丘とみずき街(がい))にも、 つぎつぎと結婚(けっこんした)したばかりの家族(かぞく)が入ってきて、赤ちゃんができ、 小学生が増えていったのだと思います。

 そして、百合丘団地とおなじころに団地のまわりと、さらに百合丘の町のまわりにも新しい住宅地ができ、そこからも小学生が百合小にあつまってきました。  まだ、南百合小(1969.11 開校)、千代ヶ丘小(1975.4 開校)、長沢小(1976.4 開校)、金程小(かなほど;1990.4 開校)、 麻生小(1991.4 開校)などがなかった時代ですから、 広い地域(ちいき)のこどもたちが西生田小と百合小にかよっていたのです。


 この文章を書いたあとずっとたってから、国土地理院(こくどちりいん)が 公開(こうかい)している空中写真(くうちゅうしゃしん)(航空写真)をさらに調(しら)べてみたところ、 百合小の校舎が増えてゆく様子がもう少し詳(くわ)しくわかりました。(2015-12)

 百合小の校舎が建つ前に田畑だった土地が平らにけずられ、鉄筋コンクリートの校舎が建つところ。  校舎がつぎつぎとふえてゆくところ。 それまでの校舎がこわされて、あたらしい校舎が建てられたところまでの 航空写真をまとめてみました。 このあとの「空から見た百合小のうつりかわり」をごらんください。


百合小がはじまった年(とし)、1965年(S.40)の秋(あき)の運動会(うんどうかい)の写真(しゃしん)です。 

 まだ、北側(きたがわ)の校舎(こうしゃ)しかありません。 校舎の右(みぎ)のはしを見(み)ると、 わたり廊下(ろうか)をとりつけるためのでっぱりがあります。(白(しろ)く見えるところ)

 また、右のはしのところは2階(かい)までしかありません。  ここの3階(がい)部分(ぶぶん)だけ、あとから作(つく)られたことがわかります。

さつえい:1965年10月10日(S.40)


1967年(S.42)の秋(あき)の運動会(うんどうかい)の写真(しゃしん)です。 

 南側(みなみがわ)の校舎(こうしゃ)の東(ひがし)の部分(ぶぶん)ができあがっています。  写真には写(うつ)っていませんが、西(にし)の部分はまだありません。  児童(じどう)たちの後(うしろ)に積(つ)んである資材(しざい)は、 この西(にし)の部分を作る工事(こうじ)のための足場(あしば)ではないかと思います。

さつえい:1967年10月1日(S.42)


 屋上(おくじょう)の上に飛(と)び出している部分から右側(みぎがわ)、 すなわち東の端(はし)の部分がありませんが、 ここも後(あと)から付け加えられました。

この東の端の部分は、航空写真(こうくうしゃしん)のページの1968年の人文字(ひともじ)の写真(しゃしん)でも見えません。  もっと後(あと)になってから、土手(どて)を削(けず)って増築(ぞうちく=たてものをつけたしておおきくする) されたようです。

 航空写真のページ

 1960年代の百合小では、こどもがたくさんいたので教室(きょうしつ)が足りなくなり、 校庭(こうてい)にプレハブ校舎(こうしゃ)をたててつかっていました。  2枚目の写真の右(みぎ)のテントのうしろに見えるのがプレハブ校舎です。

 開校(かいこう)してからしばらくの間(あいだ)は、 百合小の校舎はどんどんとおおきくなっていったのがわかります。


 2010年7月24日に解体前(かいたいまえ)の旧校舎(きゅうこうしゃ)の見学会(けんがくかい)がありました。  42年ぶりに校舎の中に入り、あちこちを見学させてもらいました。  建物(たてもの)そのものはかわりありませんでしたが、部屋(へや)の使い方とか、かべの色や形とか、 年月をこえて大きく変わっているところもありました。

 たくさんあった教室も、1970年代を過(す)ぎると余(あま)ってしまったのでしょうか。  かつての教室の中には、「プレイルーム」「ゆとりの読書学習室」など、別の目的(もくてき)に使われているものがありました。


【プレハブ校舎】[ぷれはぶこうしゃ]
 かべ、まど、やねなど、部分(ぶぶん)ごとに工場(こうじょう)でつくられた部品(ぶひん)を、 建物(たてもの)をつくる場所(ばしょ)で組(く)みたてて作(つく)る校舎(こうしゃ)。 

 建物を建(た)てたり、いらなくなったらこわして別(べつ)のところで組みたて直(なお)すのが、 短(みじか)い日にちでかんたんにできる。

❖ 2010年プレハブ仮校舎
 2010年から2012年の校舎の建て替えの時にも、校庭に3階建ての大きなプレハブ校舎を2つも作りました。  昔使われていたプレハブ校舎とは比べ物にならないほどの大きなものでした。


 「プレハブ」は英語の "prefabricated building" を短く言った "prefab" をカタカナで書いたものです。  「先に作っておくたてもの」と言う意味です。

 「プレハブ」の建物は、「プレハブ住宅」(じゅうたく)といわれる家のように一度建てたらずっと使うものもあります。  これは、こわして組み立て直すことはありませんが、 工場で同じ部品をたくさん作り、品質(ひんしつ)の良い家を早く、より安く建てられます。


空から見た百合小のうつりかわり

 国土地理院(こくどちりいん)の空中写真(くうちゅうしゃしん)から、 百合小が写(うつ)っているものを集(あつ)めてみました。

 最初(さいしょ)に校舎(こうしゃ)ができてから、 すぐに校舎がどんどんおおきくなってゆく様子(ようす)がわかります。 そして、畑(はたけ)だったところを大きく削(けず)って百合小が建(た)ち、 土手(どて)に植(う)えられた木々が「森」に育(そだ)ってゆく様子(ようす)も見えます。

 1964年(S.39)に西生田小の分校として北側(きたがわ)の校舎(こうしゃ)が使われ始(はじ)めてから、 1971年(S.46)の7年ほどの間に鉄筋(てっきん)コンクリートの校舎がつぎつぎと増築(ぞうちく)され、 それでも足りなくてプレハブ校舎が建(た)てられたことがわかります。

 今のゆりっこ森の土手は、たぶん、もっとゆるやかだったところを大きくけずって、 ひろい平らな校庭(こうてい)をつくった跡(あと)にできたのではないかと思います。  はじめは雑草(ざっそう)しかなかった土手に木々が植(う)えられ、長い間に大きく育(そだ)っています。


 百合小の「親」(おや)である西生田小の記事の中で、 1947年ころの百合小と西生田小が写っている空中写真を掲載(けいさい)しました。 そちらでは 1947年と1961年の写真をくらべることができます。

 ➜  「はじまりのその前 西生田小発祥の地

 larger ページにおさめるために画像はちぢめてあります。(230 x 327 pixels)  クリックすると元のサイズ(493 x 700 pixels)で見られます。

国土交通省(こくどこうつうしょう)国土地理院(こくどちりいん)のホームページで、 いろいろな空中写真(くうちゅうしゃしん)や地図(ちず)を見ることができます。  ➜  国土地理院 mapps







さいごの写真は2012年に建て替えられた新校舎

丸い校舎の小学校があった

 今回の記事(きじ)を書くにあたり、昔の航空写真(こうくうしゃしん)を見ている時、 2012年に取りこわされた久末配水塔(ひさすえはいすいとう: 川崎市高津区)が気になって、 高津区久末(ひさすえ)のあたりを探(さが)していました。

 すると、久末配水塔から南東に1.3kmほどのところに、 配水塔より大きな円筒形(えんとうけい)の建物があります。

toUpperRight1

fromLowerLeft1   「はて、こんなところに配水塔があったっけ?」と思い、地図で調べたところ それは横浜市立下田小学校(しもだしょうがっこう)の校舎でした。 (川崎市高津区の隣の横浜市港北区下田町) 航空写真は 1975年のものです。

❖ 下田小学校  グーグルマップ

 航空写真の上で、小学校のプールの長さ(25m)と比べると、円形校舎は直径(ちょっけい)がやく31mもあります。 大きいです。

 残念(ざんねん)ながら、下田小学校の円形校舎は1991年ころに取りこわされていました。(1991年に新校舎完成)  興味(きょうみ)があったので少し調べてみました。


 下田小学校は百合小より3年早く、1962年に開校しています。  しかし、それよりまえの1959年4月1日に日吉台(ひよしだい)小学校下田分校として開校し、円形校舎はその時に作られました。

 当時(とうじ)はまだ珍(めずら)しかった鉄筋(てっきん)コンクリートの校舎にしたいという住民の希望(きぼう)があり、 また、形も円形にしようということになったそうです。  後で紹介(しょうかい)する動画(どうが)をみると、団地や畑にかこまれてど〜んと丸い校舎がたっているすがたがあります。  壮観(そうかん)です。

 私の思い描く円形の建物は、小学生の頃に見た未来を描くアニメ、 「鉄腕アトム」とか「宇宙家族ジェットソン」の中に登場(とうじょう)するものだったので、 こんな身近に、それも1950年代からあったのは小さなおどろきでした。

 円形校舎は、水道の配水塔や石油のタンクのような円筒形(まるいつつがた)です。  円のまん中が廊下(ろうか)代わりの丸い「ホール」という広場(ひろば)で、 扇型(おうぎがた)に仕切られた教室がホールを取り囲んでいます。  扇型はお菓子(かし)のバウムクーヘンを切り分けたような形です。

 昭和30年代(1955〜1964)には円形校舎は1つの流行(りゅうこう)で、 日本各地で作られ、全国で100はあったと言います。(小学校とはかぎりません)  しかし、現在はあまり残っていないそうです。

 ちなみに、「宇宙家族ジェットソン」に登場(とうじょう)する円形のアパートは、1959年に完成して現在も使われている 実在(じつざい)の建物、アメリカのロサンゼルス国際空港(こくさいくうこう)にある「テーマビルディング」の 影響(えいきょう)をうけているといわれています。

❖ テーマビルディング  グーグルストリートビュー
    ウェブ上にある「宇宙家族ジェットソン」の画像 


 2012年の下田小学校創立50周年を記念して、地元のテレビ局が円形校舎などを 題材(だいざい)にした動画(どうが)を作っています。  その中では、1960〜1970年に児童数(じどうすう)が増(ふ)えて、 校舎を増築(ぞうちく)したり、プレハブ校舎を作ったりしたという、百合小と同じような歴史(れきし)を たどっていることが紹介されていました。

 元は3階建(がいだて)の円形校舎の上に、増築で4階をのっけたということで、すごいことをするなと思いました。  でも、あらためて校舎の形を見ると、初めから4階建にすることを考えて作られていたようです。  3階建のころから、階段(かいだん)が4階部分(その時の屋根(やね))までありました。

 なかなか興味(きょうみ)ある動画でした。 YouTube (ゆーちゅーぶ)で公開されています。

  下田小学校50周年記念

 紹介した動画には円形校舎の内部(ないぶ)が写っていますが、 これは映像制作当時(えいぞうせいさくとうじ)も残っていた横浜市立蒔田(まいた)小学校のものです。

 蒔田小学校では1959年に完成した円形校舎が最近も使われています。 こちらの校舎の直径は30mです。

❖ 蒔田小学校:横浜市南区蒔田町(まいたちょう)1020
❖ 蒔田小学校の円形校舎  ストリートビュー(2021-01)