馬格の鑑定

 如何なる良血統の馬と雖も馬格(体格)がよくなければ走れない。これは人の運動競技
に於ても同様であるが、競走馬の如く、僅かの時間に於て全身の筋肉を烈しく運動せしむ
るものに於ては、殊に馬格――体格が必要である。

 馬格の鑑定法を『相馬』といふ。相馬法は仲々一朝一夕によつて会得出来得るものでは
ない。然し競走馬の鑑定には是非とも欠くべからざる主要な条件である。従つて馬券を買
ふ上に於ても、馬を見ずに買ふ人よりも、たとへよくは分らぬながらでも、下見所で馬の
気配(馬のその日の気嫌)を見てから投票する方が間違ひがない。又、屡々馬を見てゐる
うちに、所謂(目が肥える)といふのか、幾分馬の気配なり、馬格なりが分るやうになつ
てくるものである。

 さて、馬は各々その用途によつて能力を異にするもので、乗用には速力と持久力、輓用
には索引力、駄馬には負担力が必要とされるやうに、その用途の異るに従つて、自ら馬体
の構造にも多少の差異を来すものである。然しまづ、競走馬の馬格を鑑定するには、予め
一定の標準を定めておいて、それに対照して完不完を見出し、完全なる型に近いものを良
駿といふことが最も近道でもあり、又、間違ひの少い方法ではないかと云はれてゐる。

 大体、競走馬は、馬体を方形に像って、これに近い型のものを良駿と見ることが一番簡
単な鑑別法とされてゐる。最も実際の場合ではこの標準に適合するものが甚だ少く、却つ
てその範囲外の体型を有する馬にも往々にしてよい馬がある。これは科学的の公式ではな
いから、血統でも同様で、同じ父馬、同じ母馬をもつ全兄弟が、一頭は素晴らしい成績を
あげ、他の一頭が一寸も走らないのと同様である。

 まづ前記の標準に近似する体型を具へ、これに相当する体格と体幅とを有し、肢蹄に何
等故障なく、又内臓的にも故障のない馬ならば良駿と云へるのである。

 馬には体型の釣り合ひが大切である。一見して著しく高い馬か、又少さいながらにでも
まとまつてゐる馬ならば大して不均衡とは云へないが、身体の一部分が奇形的に発達して
居るものは必ず無理がある。馬を一見してみて見逃せぬことは

 一、骨幅のあること
 二、身体全体の釣合よく、肢蹄が丈夫なこと
 三、歩様の正しいこと
 四、品位及び悍威性を具ふること

 などの諸点で馬格として見ることはまづ以上の通りである。


馬の見方

 血統がよく、馬格が申分なくても走らぬ馬がある。つまりその時その時によつて馬の気
分(気配)が悪ければ、走れる実力のある馬でも、実力を発揮し得ないことがある。競走
馬は殊に鋭敏であるから、その日の調子によつては非常に出来不出来がある。

 馬の気分の見別け方に於て、まづ第一に気を附けなければならぬことは、気分が外に現
はれる馬と、一向に外に現はれぬ馬とがあることである。これは人に於ても喜怒哀楽を露
骨に表面に現はす人と、現はさぬ人があるのと同様である。馬を見るに当つては、外に現
はれたところを巧みに、且つ速やかに判断することが大切である。相馬に熟練してくれば、
段々と外に現はれてゐないところも洞察出来るやうになるものである。馬の外貌上に現は
れるところから判断すると
 (一)競走心の旺盛なる馬 (二)競走心少く時により競走を嫌ひ、又競走に出ること
 を恐怖する馬 (三)騎手の命のまゝに走らうといふ性質の素直な馬 (四)見たとこ
 ろ一寸ボンヤリしてゐて、眠るが如き外貌の馬 (五)非常に闘志のあふれた勇ましい
 外貌の馬などがあるが、これは一寸馬を見ることに馴れてくれば、確実には分らないま
でも、或る程度までならば誰にでも比較的容易に感知されるものである。

 次に外貌上に現はれた諸点によつて馬の良否を鑑別する法、つまり馬の良否の見分け方
であるが、馬を見るのにまづ眼をつけ、注意しなければならぬことは次の諸点である。

 (一)馬が健康体であるかどうか
 馬が健康体であるかどうかは、根本の問題であるが、外貌上に現はれた諸点から綜合し
て見るべきこと。身体の出来具合、筋肉のつき具合、毛艶の良否を見分けることが必要で
ある。毛艶の良否は、それによつて内臓的の故障の有無も見分けられる。又脱糞(ボロと
云ふ)の状態によつて胃腸の健康状態を察する。

 (二)疲労してゐるかどうか
 競走に於ける使ひ過ぎ、或は調教過度の疲労はないか。競走馬の故障はこの疲労から起
ることが最も多い。而も調教の不足してゐる時よりも、調教過度で馬を疲労せしめる場合
の方が、勝つべきチヤンスを失はせる。これも馬の肉のつき方、毛艶の良否などによつて
或る程度まで察知出来るものである。

 (三)興奮状態の如何
 馬に興奮剤をかけることは、あとから馬自身を疲労させるので禁止してある。然し(こ
ゝ一番の勝負)などといふときは、よく一杯の興奮剤をかけてくる。身体がすつかり汗ば
んで、口から泡をふいてゐる馬は興奮のよく利いてゐる馬である。よく短距離などでは、
こんな馬が思はぬ奇捷を博することがある。

 (四)発情の有無
 重に牝馬の場合、殊に春季は発情(フケと称す)が来ると、これまで快速であつた馬で
も一寸も走らぬことがある。

 (五)飼養管理の状態はどうか
 所謂、喰ひがいゝとか喰ひが悪いとか云ふが、飼料もよく而も適度の調教を積まれてゐ
る馬は筋肉も引き締まり、毛艶もいゝ。充分に栄養のとれてゐる証拠である。これに反し
て栄養の悪い馬、又飼料喰ひの悪い馬は、たとへ毛艶がよくても、腹がグンと上つて細く
なつてゐる。

 (六)馬の歩様
 歩様は馬体全体でゆつたりと運歩するか、又は四肢だけでチヨコチヨコと歩くか。その
歩幅、弾力、伸縮の具合、後肢の踏み込み等。

 (七)馬の外貌から見たる感じ
 馬が爽快な気分で、何物にも臆すところなく充分の闘志をもつてゐるか否か、緊張して
ゐるか、ボンヤリとしてゐるか。耳をあまりに屡々動す馬は臆病な馬か、或は悍の高すぎ
る馬である。悠々と濶歩し而も何か物音あればキツと立止まつて両耳を立てゝ前方を注視
する馬は闘志のあふれてゐる馬と云へる。

 以上がまづ馬を見るに際して欠くべからざる要項であるが、さてどんな状態の馬がいゝ
かといふことは仲々三年や五年競馬場に出入した位では分るものではない。長年実際に馬
を手掛ける職業にある人達でも見違へることがあるが、大体心得ておかねばならぬことは
左の諸点であると思ふ。

 (一)筋肉は一歩毎に隆々として現はれる位で、而も堅く引き締まつてゐなければならな
 い。
 (二)皮膚は薄くして光沢あり、静脈が薄すらと浮き出してゐる位でなければならぬ。
 (三)骨が角立ちて現はれぬこと、而し肥満しすぎてゐるのは勿論よくない。
 (四)良馬は四肢が割合に細く見えるものである。何となれば筋肉の完全なる発達は皮膚
 を乾燥せしめて皮薄に見えるもので、従つて脚部は細く見える。
 (五)背肉の落ちざること。年齢にもよるが背肉の落ち込んでゐる馬に良馬はない。
 (六)各部の皮膚に緩みのないこと。これは馬の外貌上に現はれる点のうちでは最も大切
 なことで、人間でも老人になれば皮膚が光沢なく緩んでくるが、競走馬のやうに運動の
 激しいものは、皮膚の弛緩は直ちに馬そのものゝ健康体にあらざることを明瞭に証拠立
 てるものである。


過去の成績

 過去の成績は常に研究整理しておかなくてはならない。少なくも前季及び前々季ぐらゐ
迄の成績は必要である。過去の成績によつて実力確実の固い本命に自信を持つことも出来
れば、人の気づかない穴馬を見つけ出すことも出来るのである。

 如何におよその実力の見当がついてをり、血統の知識に豊かであつても、過去の成績を
度外視すれば勝馬の鑑定は粗笨になり、手抜かりも生じてくる。およその実力に見極めを
つけるのも、実は過去の成績に基づくのであるが、一層精密に過去の成績を検討して行く
ならば、敢へておよその実力と云はず大体真に近い程度の実力をさへ推知し得られること
になる。

 今春京都記念競馬四日目に勝つたナニワゼンシヨウは父ポリグノータス、母ソネラで、
逸駿ゼンソ、ゼンジと兄弟馬であり血統的に見て申分ない。しかも昨春新呼におりた時は
千八百米一分五五秒三といふ新記録を出した馬である。ところが直後の東京優駿競走には
十一頭立ての九着となり、以来全く見るに値ひする成績を示さなかつた。それが京都記念
競馬の特ハンでは十頭立ての六着ではあるが、四着ヤングパレード、五着ダテアオバで、
同馬の後ろに来てゐる七着のキンチヤン、八着のスモールジヤツク、いづれも錚々たる一
流級の顔ぶれであつた。つまり着順は六着ながら此の一戦は同馬が漸く昔日の好調を取戻
したのではないかと云ふ推定を下させるに充分であつた。

 調子さへ取戻せば血統的にも脚速の点でも活躍して不思議のない馬なので、それから四
日目迄休養して出場すると、果然その本来の力量を発揮し、人気は二番人気だつたが断然
たる楽勝を遂げた。

 これが同馬の新呼当時の成績に全く無知であるとすれば、或ひは狙ひきれぬ所であつた
かも知れない。と云つたわけで呼馬、アラブ共にその新馬当時の成績を記憶に止めておく
事は後の日の良き参考となるものである。

 成績表に現はれた勝時計は必らずしも各馬の実力判定に決定的な役目をつとめるもので
はない。時計にばかり考へを捉はれることは、競馬の複雑性を全く忘れた皮相的な研究の
仕方であつて、競馬の勝敗と云ふものは合理的ではあるが、しかし勝敗を決定する最後の
ものは紙一重にも似たデリケートな差違である。レースの結果は時計だけで割り切ること
は出来ない。

 馬混みに入つて実力一杯のレースが出来なかつたとすれば、その本来だけの時計を示す
ことは出来ないであらうし、また相手馬に強敵がゐないと知つて、実力一杯に戦はずとも
勝てる馬の場合もあり、さうした馬の勝時計なら、これは実力以下の悪い時計であるに違
ひない。最後の追込みの直線コース迄余力を残すために、各馬とも最初は力をためて行く
とすれば、どうかするとこんな時の勝時計はへんに遅いやうなこともある。

 逃げ馬としてスプリントのある馬が猛烈に鼻を切つて進む時、これを追込んで勝つたや
うな馬の勝時計は意外に良い事のあるものである。それはその逃げ馬は実力一杯の全力を
以て走つたのであり、これを追込んだ馬もまたその全能力を発揮しなければならばかつた
ためである。

 今春中山の初日のアカイシダケの時計は二千二百米二分二二秒四と云ふ素晴しい新記録
である。同じ日の矢張り距離二千二百米の特ハンに於ける勝時計は二分二六秒一であり、
この両者を比較してみて、その差違の余りにひどい事は寧ろ一驚に値ひする程であつて、
この時計から推定すればアカイシの二分二二秒四に三馬身の着差を以て二着となつたユキ
オミ
が若しも特ハンに出走したとすれば楽に勝つてもよい筈だが、事実さうした結果にな
るかどうかは大いなる疑問であり、現に三日目のユキオミの勝時計は同じ二千二百米の距
離に二分二八秒もかかつてゐる。

 二日目に勝つた同じく二千二百米のレースに於けるフソウの時計は二分二五秒二であり、
二着のラツキーパレードはこれに頭の着差である、従つて時計だけで云へばフソウやラツ
キーパレードが特ハンに出走しても勝ててよい筈である。これが時計だけで実力を推測れ
ない実例であり、いかにフソウ、ラツキーパレードの勝時計が特ハンのゼンポウ、ヤング
パレード、ミスアキラ
等の精鋭の時計より速いとしても、現在の実力に於いてはフソウ、
ラツキーは特ハンの馬には全く敵するわけにはいかず、力量は劣つてゐるのである。

 特ハンの時計の悪いのは逃げるゼンポウの後続馬が最後の猛襲によつて勝敗を決する意
図のもとに、互ひに牽制し合つて力をためて行つたからで、さて愈々追込みを開始しても、
ゼンポウの脚力少しも衰へず遂に逃げられてしまつたのであつて、此の一戦に於いては二
着以下の各騎手に、多少策戦の失敗があつたかと思ふ。

 といつたやうに時計の現はれる迄の経路とレースの実際とは多種多様であり、無闇と時
計を盲信するのは愚の骨頂である。時計はただ実力を推定するための基礎的な標準である
といふ風に考へておくのがよいのである。今日の勝時計はたとへ悪くとも、昨秋の何処か
で出した勝時計に素晴しいものがあるとすれば、その馬の状態が良い限りに於いては、レー
スの具合の如何によつて昨秋だけの勝時計は出せると云ふふうに考へて各馬の実力は推定
すべきである。

 前期活躍を遂げたやうな馬で、今季また調教状態よく好調にある事を知つたならば、そ
れは固い本命となるべき性質の馬である。しかし諸君の注目は必らずしも勝馬にのみ向け
られてはならない。入着馬及びその頭数と相手馬の顔ぶれとに依つて多少考察の角度は換
へなくてはならないが、入着せずとも屡々四、五着あたりのよい所にきてゐる馬には今季
は常に警戒しなくてはならず、その調子の実際に就いて知識を得るやう努められたい。さ
うした馬の調子が前走に比してたいした事がないとすれば、これは単式では狙つて危険の
馬であるが、もしも今季の好調を知るやうな事があれば、これは穴馬となる可能性の極め
て多い嘱望すべき馬である。

 二着三着または四着五着と云つたところで、その着差の如何にもより、大差とか何とか
云ふひどいのでは困るが、一着馬との差が精々五、六馬身以内だとすれば、その馬の調子
が些か飛躍するだけでも、この五、六馬身は容易に縮まり得るわけである。これは過去に
大して注目すべき程の戦績のない馬に対しても云ひ得るし、過去に相当の戦績を残しなが
ら、調子が一時さがつてきたやうな馬に就いても同様のことが云ひ得られる。

 例へば昨秋の阪神競馬二日目にシヤダイツブテの勝つた二千四百米の時計は二分三六秒
三であり、同じ日の二千四百米の他のレースで勝つたイヘミチの時計は二分三七秒三であ
つた。イヘミチのその後の成績から云へば、これよりも良い勝時計を示してゐるシヤダイ
ツブテはも少し活躍を遂げなければならない筈だのに、京都競馬になると初日ハンサムジ
ヤツク
に鼻の二馬身で三着となり、三日目は十一頭立ての七着にさがり、これだけの成績
で長距離の特殊競走などに出て勝ちみのないのはほぼ見当がつくが、五日目の二哩に出走
して一着馬からは大差に引放されて五着となつた。

 さて今春の京都記念の同馬は初日出走を取消したが、三日目には十四頭立ての六着に来
た。その時の一着馬との隔りは大して開きがあつたわけではないのだから、実戦に於いて
もその調子が悪いと云ふ推定はくだし得なかつたわけであり、調教状態も悪くはなかつた
やうである。そのシヤダイツブテが四日目に出て一着となつて二百円の大穴となつた。

 この馬などは過去の戦績や勝時計から推定し、レースの着順に細かな注意を払へば決し
て二百円などにすべき馬ではない。

 過去の成績の調べ方は、単に時計とか重量とか着差とか云つた通り一ぺんの項目に注意
するだけに止まらず、その着順とか相手馬の顔ぶれに深く留意して、その馬の今季の調子
の如何と照らし合せるならば勝馬鑑定に益する所多いであらうと信ずる。


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