レースの観察
レースを注意して見ること
レースの見方と成績表の見方とは互ひに相関連した所がある。レースその物は謂はば生
きた成績表である。しかし何しろ競馬と云ふものはスピードのものであるから、いかに忠
実に観察しても、時には見落しもあり、見間違ひもある。その見落し、見間違ひは成績表
が訂正してくれる。
例へば或るレースに於いて、二番といふ馬が第三コーナー過ぎから猛然と差し込んでき
て、第四コーナーでは殆んど先駆の馬に並ぶかとさへ見えた。しかし、その時更に後続馬
が一段となつて迫つてきたために、その二番の馬ばかりを注意してゐる事が出来ず、ほか
の馬の脚力に眼を移してゐる間に忽ち直線コースからゴールとなつて、五番、七番、一番
と云ふ順に入線する。
そこで二番と云ふ馬のことはすつかり忘れてしまふのだが、翌る日になつて思ひ出して、
あの二番は果して何着に来たかを改めてみると、十三頭立ての七着になつてゐる。
成績表れこをだけ見てゐると、この七着には余り感服できない。しかしレース中に第三
コースで示した二番の馬の脚力はこれを実際に見届けた者の頭にははつきり印象づけられ
る。此奴はいつか穴を出すかも知れない。そんな考へも浮んでくる。
その内に相手馬の顔ぶれが変つて、そのレースには特に確実な本命などと云ふのは考へ
られないとする。すると此の仲間なら此の間の二番は面白いかも知れないと云ふ気がする。
しかし実際の穴場の人気は、その馬が成績表では七着であつたために、大した人気もな
い。これに一票を献じてみると果然一着となつて好配当をつけると云ふやうなこともある。
これは成績表だけに頼らなかつたための強味である。
後に穴を出すやうな馬は、一度はどこかで良い脚を見せる。しかしこれを常に見つけ出
すと云ふことは殆んど不可能に近い。殊に馬数の多いレースで各馬の脚力を万遍なく見届
けると云ふやうなことは殆んど出来ない。
それにこれはレースに見馴れてゐる人と、さうでない人とでは眼のつけ所と注意力とが
違ふから、その結果には大分の開きがある。レースに見馴れてゐる人は、さうでない人の
気づかなつた事をなかなかよく見てゐるし、また気もついてゐる。と云つても初歩の人に
レースを見る場合にはかう云ふ所に気をつけよと云つても、慣れないうちはなかなかさう
もいかない。レースをよく見ると云ふことは結局は慣れである。だから初歩の人はなるべ
くレースはよく見るやうに努め、早くこれに慣れることを望むほかはない。
大体に於いて駈歩競走を見てゐる場合に特に注意すべきは半哩標からゴール迄である。
半哩標迄にはいい足を見せる馬などは絶対にない。それから第三コーナー及び第四コーナー
を曲る時の各馬の脚力に注意すること。ふくれると云ふのではないが、中にはコーナーを
大きく外枠から廻つて追込んでくるやうな馬もある。コーナーを大きく廻るのは馬にとつ
て非常に楽なのださうだが、距離的に云へば損である。さう云ふ馬が直線へかかつて緩み
のない鋭い脚捌きを見せればこれは強い馬である。
直線へかかつて、追ひ込んで行つて、先行馬に届かずに負けた馬、しかしかう云ふ馬は
相手馬の顔触れが変ると油断はできないから気をつけるがよい。それは追ひ出して行く地
点によつても、前の馬に届くと届かないとの差はできる。
第三コーナーから直線へかかるまでのコースの取り方と云ふものには、恐らく有利不利
があるべき筈のものであるが、特に先の馬にコースを邪魔されて進み得ないやうな馬の場
合に、その馬がやつと行手に開けたコースへ出てからの脚力の如何によつては、これは次
の機会にさうした不利な状態に陥らないとすれば、そのレースに於けるよりは遥かに力闘
するに相違ないから見逃してはならない。
それから直線へかかつてからの脚の伸び方に注意したい。逃げ馬が後続馬に追込まれて、
ぐつと脚が伸び、幾分か後続馬を放すやうな感じにでも見えれば、これは相当に脚力のあ
る証拠である。
着差首とか半馬身とか云ふのは、同着程度と心得よと云ふことを先に記したが、これも
ゴールへ飛び時の状態一つでさうも云へない場合もある。
一位に立つた馬が必勝を確信して最早手綱を捕へて馬なりにゴールへ入る。その時後続
馬が猛烈に差しこんできて、一緒にゴールへ重なり合ふやうにして流れこんできて、その
結果の着差が首であつても、これは先に立つてゐた馬の方が強いわけである。
障碍レースでは障碍の飛越に注目しなければならないのは云ふ迄もない。殊に障碍初出
走の馬の場合に然りである。障碍の上を流れるやうに飛越えるのがよい。なかには別段飛
越に際して躊躇するわけでもないのに、見てゐてぎこちなく感じられる場合がある。かう
云ふのは余り飛越の巧い馬ではない。
繋駕では特に二頭なり、三頭なりのせり合ひに於いて、そのスピードの早い遅いを比較
する事ができる。これを見ておくと、後の日の勝馬鑑定に際して、その馬とまた別の馬と
の実力の比較に於いても推察がしよくて益する所があらう。二頭のせり合ひで、一頭がキ
ヤンターをして後退する場合は、それはキヤンターをしたために後退したのではないと考
へなくてはならない。キヤンターのためではなく、並んでゐる馬について行くのが苦しく
なつてキヤンターになつてしまふのである。これを要するにレースその物は生きた成績表
と心得るがよく、各馬の脚いろを見極めることに注目すれば、次の機会に於いては着順に
捉はれたり、着差に捉はれたりする観念から逃れて、各馬の脚力本位にもつと伸び伸びと
融通無碍の気持を以て、各馬の真の実力に対する推定をくだし得るであらう。
初歩の人はどうかすると自分の買つた馬にばかり気を取られて、ほかの馬に些さかの注
意も払はない。それではレースの観察にはならない。自分がいくらその馬の馬券を買つて
ゐるにはせよ、そんなにその馬を熟視してゐても実力なければ勝つことはできないのであ
る。その馬ばかりを見てゐずとも力量があれば楽勝もできるのである。余りに自分の馬に
ばかり神経質になつてゐるのは禁物である。
見る事の必要・休むことの必要
競馬の楽しみの一つは昂奮にある。しかし馬券は理性を必要とし、判断を必要とする。
理性と判断との伴はない昂奮は、純粋に競馬を楽しむ所の昂奮ではない。それでは酒に酔
払つてしまふのと同じである。競馬の昂奮に泥酔してしまつてはならない。
そこで時に馬券を買ふことを休んで、レースを見ることの必要が生じるのである。とは
云へ何もそれが必要だから休むのではない。休んだ方が賢明のレースが屡々あるのである。
絶対人気の馬の馬券は休む。本命が怪しくて、穴の難しいレースは休む。条件附のレー
スで、実力伯仲のものが二十頭近く出るレースは休む。そのほかにも馬券を休んだ方が得
策のレースは相当多い。
馬券を買はずにレースを見てゐるだけでは、実際は何といつても物足らない。しかしさ
うしたレースに於いても、後の日の穴馬でも探してやらうと云ふ気になれば、また自ら趣
の違つた期待と興味とも感じられ、レースを見ることにも慣れることかできる。番ごと馬
券を買つてゐては、馬券買ひは上達しない。
出来るならば、此処ぞと思ふレース以外は馬券を見逃すこととして、一日に三鞍か四鞍
買つて、それで負けてもよし、勝つてもよし、後は翌る日だ、と云ふ恬然たる気持の方が
いいかも知れない。恐らくさうした馬券の買ひ方の方が馬券を買ふ回数が少ないから、損
する時は損が少なく、儲かる時はそれで結構番ごと張り切つてゐる人以上に儲ける時もあ
るに違ひない。少なくも朝二百円を取つて帰る時には足し前になつたと云ふやうなことは
ない筈である。
馬の勢力
先に「やるやらぬ」といふことに就いて記した際に、たとへ試走的に走るとしても、そ
れだけの勢力は消耗されると云ふことを述べたが、この勢力の消耗といふことは実は馬の
性能、体力によつて同様には行かない。人間にしても少し激しく仕事をすれば直ぐに疲労
をする人もあり、なかなか頑張りの利く人もある。競走馬の場合でも同じことである。
なかには一度強いレースをした後の方がよく走るといふやうな馬もある。
しかし概して云へば勢力の減り方の多少はあつても、一度走れば減るのが普通である。
特に二日追ひ、三日追ひと云ふやうな牝馬には多くの期待は懸けられない。勿論牝馬の二
日追ひ、三日追ひでも、相手馬に強い馬がゐなれば、それなら勝てるのが当然だ。しかし
それは勢力が減らずに勝てたのではなく、相手馬がその馬の減つた勢力にさへ及ばずして
負けたのである。
新抽、新呼のレースを見ると、毎日よく着にもくるし、人気もあるのだが、結局しまひ
迄勝てずに終つてしまふやうな馬がある。結局これは勢力の消耗のためで、一日々々と勢
力を使ひ減らして恢復の暇もないものだから、敵馬は次第に実力の低い馬になつてくるの
だが、それでも矢張り勝てないと云ふことになる。一見二日追ひにも全く何の影響も受け
ないやうに見える馬もある。それは「フアンの油断に依る穴」の項に於いて述べたやうな、
前日二着で、直ぐその翌る日一着になる馬である。しかしこれもよく考へると相手馬次第
の問題のやうでもある。相手馬も矢張り疲労してゐる場合が多いらしいのである。
お互ひに勢力を減らしてゐるとすれば、勢力の減り方の少ない方が勝つだけのことなの
であらう。例へば前述のホンイチの新呼当時の事にしても、そのレースに於いて一番人気
となつたフアイヤーエンジンは、ホンイチよりも一日余計出走してをり、ホンイチの走つ
てゐるレースは千八百米のレースばかりだが、フアイヤーの方は二千米のレースをも駈け
てゐる。そして着だけはよく拾つてゐる。連日力一杯に追はれてゐると云ふことが想像で
きるのである。だからホンイチは二着をとつて直ぐ翌る日一着になつたのだけれど、フア
イヤーの方はその時レースを一日休んでも尚ほ且つ前半戦のレースによつて消耗した勢力
が恢復しなかつたために敗れたのではないかとも見られる。
その証拠には、どんな二日叩きが利くと云はれてゐる馬でも、各所の競馬場を転戦した
揚句には、必らず成績不振に陥るのが常である。昨秋京都の特別レースで鼻血を出して敗
退したウネビヤマ、そのウネビヤマに後塵を浴びせて、直ちに春の根岸記念に出走して、
優勝戦には複式人気最高に祭り上げられながら脚を折つて間もなく短い生涯を終つたオタ
モイなどもその適例ではないかと思ふのである。
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