情報の注意とケントク

厩舎情報・騎手の予想

 知合ひの厩舎や騎手があるならば、その情報なり予想なりを聞くことはよい。しかしこ
れを鵜呑みに信ずると失敗の基ともなる。

 第一に騎手と馬との関係を考慮に入れなければ意味がない。例へば速歩馬を一頭も預つ
てゐないやうな厩舎の騎手が、速歩競走の予想をつけてくれても、これはちよいと危ない。
競馬場で暮してゐるのだから、調教の実際は吾々よりもよく知つてゐるかも知れないけれ
ど、自分の所に馬がゐなければ、調教を見るにもそれ程熱心だとは思はれず、或ひは仲間
の騎手からのまた聞きで、人の言葉だけを基に予想をつけてゐるのかも知れない。

 速歩は速歩馬を預つてゐる厩舎へ行かなくては本当のことは分らない。障碍でも新馬で
も駈歩でもみんな同じことだ。自分の所に新抽がゐれば、矢張り気になるから他の厩舎に
ゐる敵馬ほかの動勢を探るようにもなる。だからその騎手に聞けば、その騎手の預つてゐる新
抽の大体の力量は分る。

 しかし騎手の性格も十人十色、強気あり弱気ありで、強気の騎手なら兎角自分の所を過
信したがる。なアに、チヤンピオンへ行つたつて良い勝負をしますよ。今日は只取りみた
いなもんだ。しかしまア自分のところの馬だから穴と云ふことにしておきませう。相手は
何々君とこのこれですよ。――と云ふやうな事を云つて、何々君とこのその馬に一とつけ
て、自分の所の馬に穴とつける。

 大分威張つてゐるから本当に此奴は面白いのかも知れないと思つて買つてみると、まる
つきり走らない。何々君、つまり何々騎手のその馬があつさり勝つてしまふ。その馬を一
につけたところだけは良いけれど、自分の所の馬をいつも威張るから、ついこれに気を惹
かれて心を迷はされる。そのために損をする。だからさういふ騎手の予想は、いつそ、そ
この馬が休んで、よその馬ばかりが出てゐる時の方がその予想が信頼できる。

 弱気の騎手だと相手馬が一頭もゐなくて一本槍みたいなレースにでも、さアどうでせう、
うまく勝つてくれたらいいんですけれど、などと危ないやうな云ひ方をする。

 強気な騎手の言葉は幾分割引して参考にする必要があり、弱気な騎手の云ふことは全く
見込みがないと断言するやうな場合でないと油断がならない。騎手の予想にはその騎手の
性格が現はれるやうである。予想だけを信じるのでは危ない場合が多い。

 騎手にも調教をよく見、相手馬の状態に深く気をつけてゐるのと、割合に人の馬の調教
などには気をつけてゐない騎手とがある。従つて騎手にも予想のなかなか巧い人とそれ程
でもない人とがある。騎手の予想だからと云つて一概に信用するわけにはいかない。その
証拠には何人かの騎手に予想をつけさせて見てもみな一様といふわけにはいかない、流石
に騎手だけあつていい所を見てゐると思ふ時もあるが、相当出鱈目に近いやうに思はれる
時もある。幾人かの騎手が同じやうに一位につけた馬でも負けてしまふこともある。

 予想は結局誰の予想にしても、矢張りそれはどこまで行つても単に予想であるに過ぎな
くて、これをうまく参考にし、臨機応変にそこにつけてある一位を買つてみたり、穴を買
つてみたりするのでなければ駄目だ。所詮はこつちに勝馬を見つけ出すだけの鑑定眼がな
ければ、騎手の予想も大して参考にはならない。

 うちの馬なんか駄目です、と云つてゐたその馬が時には穴を明けたりもする。しかしそ
れは決して人を欺いたり、隠したりする積りで駄目です、と云つたわけではないのである。
事実さう信じてゐたのである。さう云ふのは勿論弱気な騎手である。レースが済むと、あ
んなに走るとは思ひませんでした。私も吃驚しましたよ、などと云つてゐる。それも決し
て白ばくれてゐるわけではない。本当に吃驚してゐるのである。

 だから騎手の予想にしても取捨選択しなければ失敗の種となる。決してこれを盲信して
はならない。

 もしも騎手に知合ひの人でもあるならば、予想よりも調教状態の実際を聞く方がために
なる。さうすると故障馬などは買はないで済む。調教タイムなどに現はれてゐない有益な
ことを知ることの出来る場合もある。初歩の人は止むを得ないとしても、多少とも馬券の
苦労を積んで、自分で研究してゐるやうな人は、どの馬が強いかと云ふやうなことを聞く
よりも自分の研究だけでは分らない、つまり本馬場などへ余り出てこない馬とか、調教に
まるつきり時計を出してゐない馬とかの状勢と云つたものだけを教へて貰ふやうにした方
がいいやうである。


ケントク信ずべからず

 屡々云ふやうに競馬は全く合理的なものである。ごく稀には偶然の勝馬と云ふのもあり
得るけれど、それは例外である。合理性に立脚してゐない勝馬と云ふのは殆んどない。

 それにも拘はらずケントクで馬券を買つてゐる人があるとすれば、これは甚だしい馬券
の邪道であり、競馬趣味と云ふものを理解してゐる人ではない。奇数の番号の馬が二度つ
づけて勝つたから、もう一ぺん奇数の番号の馬が勝たなければならない所だなどと云つて
ゐるフアンがある。そんな莫迦げたことはない。馬だつて騎手だつて、奇数偶数の番号な
どで勝敗を争つてゐるのではない。

 馬場へ出て糞をした馬は勝たないなどと云ふ人がある。これもケントクである。それな
ら馬場へ出てから糞をしない馬は皆勝つか。さう云ふことはあり得ない。さう云ふ人はた
またま糞をした馬を買つて、負けた時のことが余りにも深く記憶に残されてゐるのに違ひ
ない。そのためにそんな事を考へるのであらう。

 競馬場への行きがけに、キミヨさんと云ふ女の知合ひに逢ふ。ところがその日のレース
にキミヨと云ふ馬が出る。うんこれは面白い。キミヨと云ふ此の馬を買つてやれ、さう云
ふ決心になつてキミヨと云ふ馬を買つたら、俄然それが穴を明けて儲けたと云ふやうなたぐ
ひの話を聞かされた事もある。

 ケントク買ひで当つた、当つたと云ふのをよく聞くのは、当つた時には得々として喋る
が、外づれた時には余り人に話さないからである。しかし実際当つた時よりは外づれた時
の方が多いであらうと思ふ。諸君が本統に競馬を楽しみ、勝馬を当てることに興味を持つ
のだとしたならば、かりそめにもケントク染みた馬券の買ひ方をしてはならない。

 僕の友人で、霊媒術をやつてゐる人がある。一度競馬に連れて行けと云ふので、一緒に
出かけて占はせてみると、三鞍たて続けに当つた。その一つは二百円の大穴であつた。こ
れには僕も感心して、それなら今度はこの男の云ふ馬を買つてみやうと云ふ気になつて、
買つてみると今度は外づれた。

 これは恐らく慾がはいるからいけないのであらう。その友人自身は別段それによつて馬
券を買はうと云ふのでも何でもないから慾はないわけだが、やつぱり此方がその友人の云
ふ番号の馬を買つて儲けてやらうと云ふ慾心が、向ふの精神へ影響して行くのに違ひない。

 結局かう云ふことはみんないけない。馬券と云ふものはそんな事をして買ふべきもので
はない。飽くまで競馬そのものの合理性を追及して勝馬を見出すのでなければ嘘である。
ケントク買ひによつても長い間の事ならば、儲かる時もあるには違ひない。しかしそれは
偶然の儲けだ。年ぢうそんなことをしてゐたら必ず大きな損失を重ねるやうなことになる。
さう断言してもよいと思ふ。このことは諸君にも充分に慎んでいただきたいものだ。


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