競馬の種類とその馬券

速歩の馬券

 競走種別の相違によつて幾分馬券の買方にも変化の生ずるのは己むを得ない。勝馬を狙
ふ着眼点の根底は同じでも、速歩、新馬、障碍の馬券は幾分一般の駈歩レースの場合とは
趣を異にするものがある。

 たとへば速歩には失格がある。駈歩にもたまには失格があるが、速歩の失格はキヤンター
と云ふ速歩レース独特の失格である。いくら一着になつても、このキヤンターのために屡々
失格を宣告される。此処に駈歩レースとの大いなる相違がある。

 勝馬の鑑定にしても、幾分駈歩とは異るところがあり、たとへば成績に現はれる勝時計
にしても、速歩に於いては駈歩に於けるよりもより多くその実力、その脚速を裏書きする。
その点速歩の時計は駈歩の時計よりも信頼できるものであり、一ハロン何秒で歩くといふ
馬は何かの加減で負けることはあつても、勝つ時はちやんとそれに近い時計で歩いてくる。
そしてその馬が順調に歩きさへすれば、その馬だけの時計を出してゐない他の馬が、その
馬を負かすといふやうな事は滅多にない。

 それから速歩レースでは曳馬の観察が駈歩とは多少違ふ。つまり速歩ではパドツクから
馬場へ出た後に地乗りと云ふことをやる。本レースに対する一種の足馴らしみたいなもの
である。この地乗りの観察によつて、その日の馬の出来具合と気配とが観取される。尤も
地乗りだけはひどく良いにも拘はらずレースになるとキヤンターを繰返したり、地乗りに
は一向良い脚も見せず只ぼんやりと馬を歩かせてゐる騎手が、レースになつてみると断然
強く、歩様も正確に一着すると云ふやうな事もあり、一概に云ひ切ることはできないにし
ても、速歩の馬券を買ふなら、地乗りの調子だけは注意するのが本統である。

 速歩レースのキヤンター失格に就いては今も記した通りであるが、しかし最近関東に於
ける速歩レースにはキヤンター失格が極めて少なくなつた。一時速歩レースの公正と審判
とが大分論議に上された結果、速歩レースに対する規則がやかましくなつて、一季間にキ
ヤンター失格を何度やると、騎乗停止を命ずると云つたやうな厳重な規則が設けられたか
らである。騎乗停止になつては騎手もやり切れないから、近頃はみんな真面目にレースを
やる。従つて昔のやうに意想外の穴馬などが突然飛出すやうな事は滅多になくなつた。少
なくも関東の速歩レースでは、速歩には失格があるから馬券を買はない、といふやうな考
へは最早棄てても差支へないやうである。信ずる馬さへあればこれに一票を投ずるがよい。

 しかし関西にはこんな規則はない。矢張り昔のままでやつてゐるから、今でも失格が実
に多い。関東なら失格が恐いから、キヤンターすれば馬を止める。しかし関西では失格し
たところでそれだけの話だから、キヤンターを制止する気持も持つだらうが同時に賞金に
もありつきたい、さう云ふ気持で馬を急がせる。そこに関東の速歩レースとは大いに異る
所があり、それでゐて速歩に対する趣味は関西の方が盛んのやうで、出走馬も多ければ馬
券も売れる。

 しかし卒直に云へば関西の速歩の馬券は何しろ馬数が多いところへもつてきて、規則が
緩やかなのだから直ぐに乱戦混戦に陥る。ほかの馬のキヤンターに邪魔されて。もつと歩
いて当然の馬がチヤンスを逸したりもする。馬数多い駈歩レースの危険に、更にキヤンター
と云ふ厄介物をつけ加へたやうなレースが度々ある。安全を愛する人は関西の速歩の馬券
は避けるがよく、穴を狙ふことの好きな、従つて山気沢山の人には馬券的興味はあるに違
ひないから、さう云ふ人の事まで止めやうとは思はないが、しかし駈歩以上に多くの警戒
心を働らかせることだけは忘れてはならない。


新抽新呼の馬券

 新抽、新呼は過去にレースの記録がないから、勝馬鑑定の基礎は専ら血統、馬格、それ
と調教状態に頼ることになる。そして調教状態のいい馬が本レースにも大抵は良いといふ
事は古馬の場合と同様である。しかも血統以上に調教状態が物を云ふ場合が多い。

 ただ一般フアンはこの調教状態に就いて実際の知識を余り持たない。厩舎に知合ひの人
でもあれば、さふ云ふ人から調教状態による強みを教へて貰ふこともできるが、さもない
人は主として新聞雑誌の勝馬予想を参考にするより外はなくなる。

 予想記者も相当の苦心はしてゐるのであらうが、しかし新馬の調教状態などは、矢張り
誰しも見る所が同じやうな事になるものと見えて、新聞予想も特に新馬の場合だけは、予
想に挙げる馬が一方に偏しがちになる。甲乙丙馬殆んど力量互角の馬が出るやうな時に、
新聞予想の大部分が甲の方を一位に推したりすると、その人気に力量以上の懸隔が生じた
りする。即ち新馬レースに臨んでは予想記事の偏重に諸君は充分の警戒を払ふ必要がある。

 実際のレースに就いて云ふと、新馬だけに何と云つても古馬程確定的な実力を持つてゐ
ない。その馬特有の性癖などにも最初は余り気がつかない。新馬だけに一レース走ると、
その勢力の意外に減退してしまふやうな馬もある。調子の上り下りの変化も激しい。

 前半鋭い足を見せた馬が中頃から急に調子がいけなくなると云ふやうなこともあり、そ
の一方には中頃からめきめきと調子のよくなつてくるやうな馬もある。この辺の変化は古
馬にも多少はあるが、新馬に於いて殊に甚しい。その辺の呼吸をよく呑みこんでおかない
と、新馬の馬券は失敗する。同じ駈歩レースではあるが、矢張り古馬のレースと一緒に考
へてはならぬ点があるのである。

 その点から云つて、初歩の人は余り新馬レースには気を入れぬ方が得策であるかも知れ
ない。実際の気持を云へば、初歩の人ではないにしても、調教状態に於いての知識を余り
持たぬ場合なら、馬券は控え目にするのが理窟であらう。


障碍の馬券

 障碍レースは障碍飛越と云ふ独特のものがあるので、そこが駈歩とは大いに趣を異にし
てゐる点である。障碍があるから落馬もある。馬の脚力だけを土台にして勝馬を研究して
みても、飛越が下手なら其処で遅れもするし、落馬もする。性能に対する研究と観察点と
か大分違ふのである。

 穴を狙ふ事の好きな人はよく本命馬の落馬を当てこんで弱い馬を買ふ。前述した中山に
於けるアケタケミスエメラルドの例などがそれであり、本命が落馬して人気のない馬が
勝つたのだから、この場合などは馬券は成功である。

 人気馬でもよく落ちる。しかし数から云へば落ちるのは矢張り弱い馬に多い。あの馬さ
へ落ちてくれればこれがくる――そんなふうに考へて弱い馬の馬券を買ふ。すると強い方
の馬は落ちも何にもせずに至極颯爽と障碍を飛んで行くのに、却つて自分の買つた弱い馬
の方が落ちてしまふ。そんなのはちよいと皮肉だが、力としては矢張りそれで仕方がない。

 従つて馬券は結局実力本位で買ふよりほかはない。普段から障碍飛越の巧いことを知つ
てゐる馬で、その馬の実力に期待できるとすれば、その馬を買ふのが順当である。しかも
その馬に落馬されたとすれば、これはもう天命と思つて諦らめるより外はない。飛越の下
手な馬に対してなら、それなら落馬の懸念を抱くもよいが、さもなければどうにも仕方が
ない。

 その点障碍レースに於いては駈歩と違つて些かの偶然が働くと云ふ理窟になる。普段飛
越の巧い馬が、何かの拍子で落ちたとすれば、これは偶然の出来事である。実力だけの勝
負ではない。

 偶然がレースを支配する――支配しない迄も時として影響する、さう云ふレースは厭だ
と思へば、これもまた馬券は控え目にするがよい。障碍新入りの馬などが何頭も出るレー
スに於いては、かうした偶然性をそれ程意に介しない人にしても、矢張り馬券は慎重に控
え目にすべきである。

 飛越の巧拙はレース開催前の試験や、一度や二度の調教ぐらゐでは安心がならぬもので、
レースになつてみると想像したよりも遥かに巧い馬もあり、調教の時にこれくらゐ飛べれ
ば立派なものだと思つてゐた馬でも、レースになつてはから駄目なのもある。

 従つて平場の時はよく走つた馬でも、障碍に廻つてはそれ程の活躍を遂げられない馬も
あり、最近の例ではキングタカコマのやうに、平場当時とはまるで別の馬ででもあるやう
な進出ぶりを示す馬もある。障害飛越と云ふのは速力や持久力とは違つた特別の能力で是
非もないことである。


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