斤量不足の制裁に就て
僕も、競馬フアン乃至馬主として、競馬に関係してから、十年になるがその間普通の常
識から考へて、どうしても首肯出来ないことが、競馬の世界に、二、三あるが、その中で
尤も甚だしく不当と思はれるのは、斤量不足に対する制裁の過酷といふことである。こん
な不当な過酷な制裁は、競馬以外の社会には絶対にないと思ふのである。
去年の阪神競馬に於て、杉浦騎手が斤量不足で、一年の騎乗停止処分を受けた。
騎乗停止といふ処分は、レースは勿論調教にも乗れないことであるから、騎手としては、
一年間の営業停止である。普通の社会で、自動車の運転手が営業停止になり、料理店など
が営業停止に会ふ場合などは、可なり重大なる過失乃至は罪を犯した場合である、それで
も警察の停止処分は、二十日とか、一ケ月である。半年とか、一年に亘る処分などは、新
聞記事でも見たことがないやうである。
一年も営業停止をされたならば、大抵の商人乃至勤労者は、その生活を脅かされて参つ
てしまふと思ふのである。サラリイマンにすれば、一年間の休職である。
斤量不足といふことが、そんなに道徳的な罪悪性を帯びた過失であらうか。私は、さう
だとは考へられないのである。
不正騎乗の場合は、どんな厳罰に処せられても仕方がない。それは、犯意がなければ罰
せられないことだし、さういふ犯意を抱かないことに依つて、如何なる厳罰も避けること
が出来るのである。
しかし、斤量不足の場合は、どんなに人格高潔なる騎手と雖も(自分は斤量不足は絶対
にしない)と確言出来るだらうか。僕は、出来ないと思ふ、彼が神でない限りは。
人間には、錯覚といふことがあり、思ひ違ひといふことがある。殊に、競走直前の興奮
してゐる心理状態に於てはさうだと思ふ。
どんな騎手だつて、馬主だつて、斤量不足は、極力注意してゐるに違ひない、何となれ
ば、斤量不足に依つて、馬主も騎手も、大害こそ受くれ、寸毫も利するところがないから
だ。だから、斤量不足の場合は、騎手の心理に、少しの故意も犯意もないわけである。絶
対に犯意のない過失である。その過失を避けるためにあゝした過酷な制裁が、果して必要
であらうか。
尤も、斤量不足の原因にも、色々あるだらう。予備検量をした後、鉛を持ち歩いてゐる
裡に、何処かへ置き忘れたといふが如き場合は、これは騎手としての職務怠慢で、相当処
罰されてもいゝことである。しかし、杉浦騎手の場合の如き、一キロの不足が、何に原因
してゐるか、自分でも考へられないといふ場合は、人間としての不可抗力な錯覚に依ると
いふ外、説明の仕方はないと思ふ。しかも、その錯覚が、当人以外に在つたかも分らない
のだ。
しかし、斤量不足は、多くの競馬フアンに迷惑をかける過失であるから寛大には許せな
いといふことが云はれるに違ひない。しかし、騎手の過失は、斤量不足でなくとも、皆フ
アンに迷惑をかけるものである。スタートに於ける出遅れ、コースの取り違ひ、他馬押圧
に依る失格、キヤンターのための失格、レース中の落馬、みな騎手の過失のフアンに迷惑
をかける場合である。もし、斤量不足が、フアンに迷惑をかけるといふので、重大なる制
裁を受けるものなれば、レース中の落馬なども、相当制裁されてよいのである。落馬の方
こそ、騎手としての手腕未熟に依る過失である。しかも、他の凡ての過失が、不可抗力と
いふ名前で、何の制裁も受けず、斤量不足だけが、どうしてあゝいふ致命的な重罰を受け
ねばならないのだらうか。
しかも、制裁を寛くすれば、斤量不足が頻々として起り、レースの神聖が保てないとい
ふのなれば、致し方がないが、制裁が全然なくとも、自ら好んで斤量不足の危険を犯す騎
手などは、一人だつてあるまいと思ふのだ。
しかも、斤量不足が、あんな過酷な制裁である以上、凡ての騎手はレース中といへども、
一度斤量のことを考へ(鉛が落ちてやしないか)といふことが気になり出すと、つひいや
な不安に襲はれ、一意専心レースに懸命になれないのではないだらうか。
二、三の騎手に聴くと、(斤量不足のことを考へると、たとひ勝つてもカンカンに乗る
まではイヤな気持です)と、云ふのだ。人間が人間である以上、誰でも過失があるのだか
ら、かういふ不安は凡ての騎手につきまとつてゐるのではないかと思ふ。
殊に、杉浦騎手などの大厩舎を擁する騎手に対する一年間の騎乗停止は、杉浦個人を罰
すると同時に、間接には同厩舎の馬主諸君にも、莫大なる損害を与へてゐることなのだ。
杉浦関係の馬主諸君は何等罪なくして制裁を受けてゐるのと同じだ。と云つて多年の情諠
上直ぐ馬を引き上げるわけには行かず、一年間杉浦騎手と共に、暗鬱なる辛抱をしなけれ
ばならないのである。
であるから、斤量不足の場合を考へれば、大厩舎を預かる騎手などは、容易にレースに
は出場しなくなるのではないだらうか。人間である以上、何ういふ思ひ違ひ、錯覚から、
斤量不足をやるかも知れぬと考へれば、責任の位置に在る大騎手は、容易にレースに出ら
れなくなるのではないかと思ふのだ。
犯意がなければ成立しない過失は、やらなくてもすむ。それは、犯意を持たなければい
いんだから。しかし、斤量不足は、騎手が人間である以上、いつ何時いかなる神経や感覚
の間違ひで、犯さないとは限らないからだ。
むろん、斤量不足が頻々として、起つてはレースがやれる訳ではない。相当なる制裁が
あるのは、当然である。しかしそれが人間としての不可抗力なる錯覚に依る場合、もう少
し合理的な制裁で沢山であると思ふ。また、凡ての騎手が、斤量不足を厳に警戒してゐる
以上、更に致命的な制裁を課して、騎手を戦々恟々たらしめる必要があるだらうか。
他の如何なる社会にも、人間の過失がこんなに残酷に罰せられる場合はないと思ふ。
僕は、一ケ月乃至三ケ月の騎乗停止に罰金を併課することに依つて、充分制裁の効果を
挙ぐることが出来ると思ふ。
一年間の騎乗停止よりは、五千円の罰金でも歓んで、出すのではないかと思ふ。
斤量不足の場合、フアンは興奮して(馬鹿野郎)などといふかも知れない。しかし、競馬
フアンは、由来あきらめのよい恬淡の士が多いのだ、興奮も多くはその場限りで、後日に
は一年間の騎乗停止を憐んでゐる人が多いと思ふ。
それから、これは制裁問題とは別だが斤量不足の場合は、元来資格のない馬が誤つて出
場してゐたといふ意味でその馬の投票券は、払ひ戻されるのが当然でないかと思ふ。
一年間職業を奪はれるといふことが、当人に取つて、どんなに重大であるか。殊に、騎
手や馬主などには、何等抗議、抗弁の機関もない競馬界の現状に於て、あゝした処分はも
う少し考慮されていゝのではないかと思ふのだ。敢て競馬界当事者の一考を煩はしたい。
(昭和十一年二月「競馬フアン」所載)
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