競馬雑記
騎手殴打事件
秋季中山競馬の二日目、第五競馬の繋駕速歩の競走で、ゴールデンベイ号に騎乗せる瀧
修騎手が、競馬フアンの激昂を買ひ暴行を受くるに至つた事件が起きた。
此の日のレースは、出走馬僅かに四頭で、ゴールデンベイが最大人気であつた。スター
トの先頭は一二〇米のヒメユウ号で、最初からぐんぐん逃げて一周したが、一六〇米後か
ら出る快速馬ゴールデンベイには何時もの脚がなく一向ヒメユウとの距離はつまらない。
然も故意か自然かは分らないが、スタートの出は甚だ悪く、約六百米走つて観覧席前に来
た時は、一二〇米後のキングトロツターに詰められ、直ぐ一馬身後迄迫られてゐる状況で
あつた。
二周目の時から、一等席の観客から、「八百長!」の罵声が上つた。
三周目、即ちゴールインの時には此の罵声は即ち附和雷同を叫んで、検量室に引き上げ
来つた瀧騎手に向つて、激昂せる群集が殺到し、遂に馬上より同騎手を引きずり下ろし、
殴打すると云ふ未曾有の暴行事件となつたのである。
然し此のレースは決して八百長ではあるまい。どんな快速馬でも、その時の調子が悪け
れば走れるものではない。その証拠には、優勝レースでは、ミシシツピー、キングスポー
トの二頭は、先行するレーオンヒメユウを遂に捕へることが出来なかつたではないか。と
にかく神聖なるべき競馬場で、レースの施行、決定に関して、当事者以外は如何なる発言
権も許されてゐない競馬に関して、他人の心理を忖度して、出乗せる騎手を殴打すると云
ふが如きは、極めて卑怯であり、最も唾棄すべき悪行為である。
ミシシツピーでさへ、調子が悪ければ着にも来ないのである。どんな快速馬でも負ける
チヤンスがあつてこそ、レースは成立するのだ。
然しながら、何故に群集がかくも激昂したかと云ふことに就いては、深く考慮すべき問
題が横はつてゐる。実際、競馬フアンは凡べてに対して真剣である。倶楽部を信じ、スター
トを信じ、馬を信じ、騎手を信じ、此の馬が勝つと云ふことを判定して投票してゐるので
ある。而も競馬フアンは、相当真剣な金を持つて来て、馬券を買つてゐるのである。
その信念と真剣さを裏切つたらどうか?爆発するのは、決して単なる愚痴ではない。今
回の如き、暴力行為に迄達する激怒である。此の意味で今回の事件は兎角レースに対する
観念がルーズになり勝ちな騎手に取つて、一大戒告ではあると思ふ。
持馬に就いて
僕も時々、事情の知らない人から、「馬運がいゝですね。」と云はれるが、僕自身はそ
んなに運がいゝとは必ずしも思つてゐない。抽籤馬は、他の人に比べると残り馬が良く当
つてゐるが、呼馬に至つては大成した馬は今迄に一頭もゐないのである。従つて抽籤馬か
らあがつた賞金は何時も呼馬の方に消えて行く。だから自分では馬運が良いとは思へない
のである。
昨年の春僕が抽きあてた抽籤馬は、春季阪神のドラポー、根岸のクロコの二頭である。
此のうちクロコは最初から当てにしなかつた馬であつて、根岸の第六日、漸く第三着に入
つて二百円得たにすぎない。たゞドラポーが、馬格は短小ながら、母親の清心の血液を良
く受けたせゐが、一月の阪神競馬で一勝し、次いで古抽に入つてから東京で一勝、根岸で
は四歳の若冠ながら優勝した。更に秋季に於ては、根岸特ハンの二着、優勝の二着、東京
特ハンの二着、優勝の二着、中山特ハンの一着、優勝の一着と云ふ好成績を挙げた。
この馬は七月生れであるから、昨年の四歳馬中最も年が若いわけで、しかもわづかに五
尺足らずであるのに、よく走るものだと感心してゐる。
秋季の新抽には、福島のモダンニホン、中山のトキノハナ、京都のナワスレグサ、阪神
のタケミドリの四頭ある。
トキノハナは馬格の立派な馬であつたが、抽籤当時は、三頭幾らで購買した馬だと聞か
されたので、内心悲観してゐたのである。ところが調教してみると仲々調子がよく、東京
競馬の開催中、府中での調教では、東京の新抽達とは問題にならぬ位早かつた。タイムも
内馬場一三七位を出したのである。東京の内馬場を、アラブの新抽で一三七の時計を出せ
ば、先づ優勝候補であると聞いてゐたので、中山では非常に期待してゐたのであつた。幸
ひ楽々優勝を取つたが、僕の希望では、優勝候補だつたカスガとは、あんな癖を出さない
時勝負をさせて見たかつた。血統が良くないためであらうが、「競馬フアン」の増田君な
ど、僕が幾ら走る馬だと云つても仲々信じてくれなかつた。
しかしトキノハナの父、内ア
ア、良屯と云ふ馬は、父がラシカツターで、母が内アア、オルドンネである。オルドンネ
は、父が洪アラ、オーバーヤン五ノ六、母は内アア、第一ブリユエツトノ一で、内アアの
種牡馬としては立派なものだと思つてゐる。アングロアラブの国有種牡馬として、オフレー、
王楼、王慈、賀啼、嘉栄、志浪等と共に、奥羽種馬牧場に繋養されてゐるが、王楼、王慈、
オフレーの血統にサラがかゝつてゐるアングロアラブであるから、それらの馬よりも一段
と血液が優秀な筈である。而も母親内洋プレペリーは濠州産馬の血液が入つてゐるから、
之も亦ア系馬の母としては秀れてゐる筈である。
京都のナワスレグサは、第五日目に漸く第三着に入つた。此の馬は手放す予定である。
福島のモダンニホンは、ア系の強剛ヤチヨの親類筋なので、一年位は持つて見るつもり
だ。
阪神のタケミドリは、まだレース前で如何なる成績を示すか不明だが、此の馬はこちら
で調教中、トキノハナと併せて、一度トキノハナを負かしたことがあるので、一勝は楽に
する馬だと思つてゐる。血統は父が内サラ、平草、母が、ギド雑、二ノ笹子で、さして優
秀とは思へないが、成績に依つては残す考へである。以上で昭和九年度の新抽は書いたが
此の他にサラ系古抽にヤマサチ、メイオン、ア系馬にウミサチがある。呼馬にはドロージ
ヤン、タチヒカリ、マスタピースがゐるがいづれも良い成績はあげてゐない。たゞ今年度
の新呼が二頭あるので、大いに期待してゐる次第である。(昭和十年一月「馬の世界」所載)
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