愛症候群(その発病及び傾向と対策に関する一考察)


04

「…………それは、恋じゃーないような、気がするねェ」

 鏡の前に立つ我が子の話を、ひとしきり黙って聞いたあと、死神は少し躊躇いながらその結論を口にした。
 そんな事は無いと反論されるか、それとも何故と理由を聞き返されるだろうか。落ちつかない気持ちでその反応を待っていたのが、しかし予想に反し「そうか」とだけ呟いて、キッドは軽く肩を竦めた。
「やはり父上も、そう思うんだね」
「やっぱり、って事は」
「ああ、以前に友達にも相談してみたのだけれど、」
「違うって?」
「うん」
「そうだろうね」
 対照的に、キッドの落ち着いた様子に死神はほっと安堵の胸をなでおろし、しかし同時に、なんだ、と肩すかしをくわされたような気もした。少しばかり周囲とは異なる肩書を持った我が子だ。悩みを打ち明けられるような友人が存在する、という事自体は、喜ばしいことである筈だのに。まず真っ先に親を頼るような年ではもうないのだなと、同時に実感されて、物寂しくもあるような。
「俺も、なんとなくそんなような気はしていたんだ」
 そんな複雑な気持ちを抱える父に気付いた様子もなく、キッドは言葉を続ける。「そうなの?」と問う死神に、ふうっと物憂げに溜息をつき、目元にかかりそうな前髪を軽く指先で払って、うん、とキッドは小さく頷いた。
「症状としては多く当てはまるが、聞き及んでいるものと少しばかり異なるなと、思ったものだから」
「……『少し』、ね」
「?」
「ああいや。なんでもないよ」
 誤魔化すようにして両手をぶんぶんと振る死神を、少し不思議そうな目で見遣ってから、キッドは自分の右手を胸の死武専ブローチの辺りにそっと置いた。
「恋というものはもっと、……相手の事を思うだけで、胸が温かくなるものだと」
「ん〜……」
「あるいは逆に、締め付けられるほどに、苦しくもなるのだとか」
「そうだねェ」
「確かに、あいつが正面玄関のツノを折ってシンメトリーを崩してしまった時の事を、思い出しただけで俺はもう、胸を掻き毟られるように苦しく鉛が沈んだように気分が重く、沈鬱になってしまうのだけど、」
「……いや、キッドくん?」
「…………分かっているよ、父上。これは恋じゃないんだね」
 言いながら、キッドはその両手を腰に当て、父を見上げていた視線を床へと落としたあと、疲れたように長い息を吐いた。
「俺もまだまだ経験の足りない、青二才だということか」
「いや……まあ。そーいうのはさ、焦ってするもんじゃないよ、うん」
「そうかな」
「そうそう」
「……ふうん?」

  返した言葉に親のエゴというものは、果たして含まれていなかっただろうか。やや疑問を含んだ声音で返され、死神は少し慌てた調子で「あっいや、でも」と続けた。
「キッドくんがどーしてもっていうんならさ。セッティングを然るべき筋に依頼して」
「見合いの事ならもういいよ、父上。断るのにも気を使うし」
 それに、と言って顔を上げた、キッドの表情には気落ちした様子はない。どこか楽しげにさえ見えるその表情、清廉な輝きを宿した目は、未知への飽くなき好奇心、探究心のさせるものだろうかと死神は思う。
「もっと、身近にあるもののような気がするんだ。きっと、俺が気付いていないだけで」
「……」
「リズとパティに出逢った時のように。この死武専で、友人達と巡り合えたように。俺は、その恋というものを、自分の力で探し出したいと思う、…………だめかな」
 語尾に少しだけ幼さを覗かせ、キッドは父の姿を映す鏡を見上げる。
 曲げるつもりなどない強い意志を、それでも父の手前を思ってか、許可を求めるように軽く小首を傾げてみせた我が子に、応えて死神はくすりと笑みのようなものを零した。
「わかったよ、キッドくん」
 そんな目で見詰められて、否と言える親がどこにいるだろう。
 小さく息をつき、キッドの主張を受け容れた死神は、けれど鏡の向こうから、「でもね」と言ってずずいとその面を寄せてきた。
「…………本当に、そういう相手ができた時は、私には教えてくれるよね?」
 勿論だよ、と笑顔が返ってくるのだと信じて疑わなかった。これまでならきっと、そうだったろう。けれど彼の息子は、常にない真剣な様子の父に、軽く瞬きをしたのみで、彼の想像とは異なる言葉を返してきた。
「父上もお忙しいだろうし、一々そんなことに時間を割く必要も無いと思うけれど」
「いや! いやいやいやいや。キッドくんにとって重要なことは、私にとっても大事だもの!」
「そうかい?」
「勿論! ……それにホラ、またその、勘違いだったりしたらさ、困るじゃない? …………」
 直前まで柔らかだったキッドの顔が、途端にむっとしたものになる。その変化に、しまった、と死神は後悔した。自らの未熟を知る身であれど、追い打ちをかけられることは決して面白くはないのだろう。まして相手が、身内ともなれば正直な気持ちが表情に出ても仕方のない事だ。
「…………心配には及ばないよ、父上。俺には幸い、信頼に足るパートナーが二人もいるし、親身に相談に乗ってくれる友人もちゃんといるから」
「それは、そうだけど、……でもね」
「じゃあね、もう行くよ」
「ちょっ、待っ、……キッドくんっ、」
 ただただ我が子を思うばかりに出た言葉だというのに。
 やや強引に会話を打ち切って、くるりと踵を返したキッドの、足音も高く断首台鳥居の方へと、向かう背中が遠くなる。


「――…………ああー……」
 鏡から零れた悲嘆の声は、誰にも届くことはなく、デスルームのどこまでも高く青く晴れた空へと、吸い込まれ消えていった。