EARLY IN THE MORNING


02

「……うむ。やはりここから見える景色は、とてもいいな」

 強めの風に前髪を遊ばせながら、額に少し滲んだ汗を軽く指先で拭う。
 地平から、まだ眠たげな顔の太陽が漸く顔を出し、デス・シティーの街が朝の光に包まれている。まだ人通りの少ない路地、家々から細く静かにたちのぼる煙。死武専正面玄関前、階段を上りきった広場でキッドは、目覚め始めた街並みを一望し、満足げに頷いた。
「長い長い階段を、怨嗟の表情で上りきった新入生達が皆、ここで街を振り返ると見る間に生気が蘇り別人のように瞳が輝く。砂漠の風を受け、背筋がしゃんと伸びる。もう一歩も動けないと思っていた筈の足が自然と前に進む。抱えてきた不安をひととき忘れ、未知への期待を抱いた顔で教室へと向かう。……それはこれまでに成し遂げたもの、その先に見えるもの、そしてどこまでも遥か遠くまで広がっていくであろう自らの世界、そんなものを、ここからの眺めに重ねるから、だろうか? …………」

 なあソウル、と呼びかけた傍らで、一足遅れて階段を上って来た彼の友人は、肩を大きく上下させ、呼吸を整えることに意識を集中している。両膝に手をつき、ぜいぜいと荒い息を吐く様は、疲労の様子など欠片も見せず涼しい顔をしているキッドとは実に対照的だった。
「肺病病みの騾馬みたいだな」
「…………なにその、意味わかんねェ罵倒表現……」
「惰弱だぞ。この程度で根をあげるなど」
「こ〜の〜程度ォ〜……?」
 恨めしげに言って顔を上げた、ソウルの顎を伝って汗が流れ落ちた。じとりと睨みつけてくる赤い瞳を、受け流してキッドは片眉を上げる。
「せめて八分キッカリで上れるようになったらどうだ?」
「……いつもなら、な! …………ココ来るまで、どんだけ、走ってきたと、思って!」
「たいした距離でもなかろう」
「………………少なくとも、『デス・シティー周回』はアップで走る距離じゃねェ」
 そこまで言って言葉を切る。ソウルの身体からオーバーヒートしたかのよう、熱が湯気のように立ち上って見え、汗で薄いTシャツが肌に張り付いていた。羽織っていた長袖のパーカーは既に脱いでいる。腰に巻くとかダセえ、とつまらないことでぶつぶつ文句を言っていたが、いまやそんな気力すら無くなってしまったようだった。
「ほら、水分補給」
 朝受け取ったミネラルウォーターのボトルを投げ渡す。ここへ辿りつくまでに、中身の殆どはソウルによって消費されていたが、それでも無いよりはマシだろう。
「あー……、……サンキュ」
 掠れた声で言い、ボトルに口をつけた彼の、喉仏がゆっくりと上下する様をなんとはなしに眺め、そのまま視線が自然に下がる。鎖骨下筋。上腕筋。胸筋。ブラック☆スターほどではないが、均整のとれたしなやかな筋肉は、身体づくりを怠っていないことの証明でもある。

 プハッ、と空になったボトルから口を離したソウルが、一息ついたと言った様子で長い息を吐いた。
「……暑っちー」
 言いながら、こめかみを流れる汗を不愉快そうに払う。着ているシャツの襟首あたりを引っ張り、しばらくぱたぱたと風を送ったあと、そのまま掴んだシャツで乱暴に顎を拭った、拍子に。
「――……、」
 傷が。
 捲れた裾から覗く、脇腹に。
 どうしたって、目がいってしまう。肩口から脇腹の辺りまで、斜めに走る大きな縫い跡は、キッドも何度か目にしたことがある。次第に目立たなくなったとはいえ、いまもくっきりと残る縫合跡。
 そう、古疵だ。
 感傷的になるつもりはない。勲章だと称賛するつもりも。それはただの事実、異なる二つの魂が、ぶつかり合った軌跡に過ぎないのだと。
 理解していてそれでも。
 焦燥と衝動、そして絶望。それらすべてを記憶して、刻みこまれた傷を、……絆を。

(羨んで、いるとでも?)

 ふと浮かんだ言葉に息が詰まる。
 羨む、それは何をだろう。目に見える形で、刻まれる時の連なりを? それは、己が身には決して刻み得ぬものであるから――、か?




「……、?」
「あ、」
 視線に気付いたか、ソウルが顔を上げた。
 目が、合ってしまう。じろじろと不躾に眺めてしまっていたことの、非礼を詫びようとして、言葉が上手く出てこない。
 考えてみれば、謝る方がおかしいのだろうか。隠すわけでもない傷を、目にして何故に後ろ暗い気持ちになっているのか、説明がつかず焦る。
 そうして言葉を探しまごまごとしているキッドを、しばし怪訝そうに見ていたソウルはややあって、掴んでいたシャツの裾をぐっと下ろし、胸のあたりを隠すように背を丸めて、にやあっと半眼で笑った。
「……やーらし」
「な」
「ジロジロ見てんじゃないわよォー、すけべー」
 気持ちの悪い語調で言い妙なしなを作ってみせるその様に、一瞬ぽかんとした顔をしたキッドは、漸く言葉の意味を悟って「誰が助平だ!」と声を荒げた。
「だってお前、……ソッチ方面で評判悪ィしよ、実際!」
「なんだと」
「聞いてんぞ、『女子更衣室襲撃事件』」
「…………あれは。仕方なかろう、急を要する任務だったんだ! 俺はリズとパティを呼びに入っただけで、決して邪な気持ちがあった訳では」
「それが通ると本気で思ってんなら大したもんだ」
 過去の醜聞をあげつらって、けらけらと屈託なく笑う。そんなソウルに暫し憮然とした顔で対峙していたキッドは、やがて呆れたように溜息をついた。意図的に緩められた場の空気に、内心で安堵して、小さく苦笑いを返す、
「タオルを使わんか、戯け。そんな汗だくのシャツで拭っても意味がないだろう」
「持ってるわけねェだろ、走り込みする予定なんかなかったっつーのに……、っぶ」
 投げたタオルは、ばふっとソウルの顔面にクリーンヒットした。勿論、意趣返しだ。