02 「うむ。それというのが、『人の持つ五つの本能的衝動を満たすこと』だという」 言いながら、キッドは手の中の文庫本を示してみせた。 「マズローの欲求五段階説に少し、似ているな」 「いや知らねェけど、…………五つ? 三つじゃなくてか?」 「それは純粋な生存のための三代欲求のことだろう。そうではなく、……」 まずは生存本能、と言いながら、キッドは握った右手の親指を立てた。 「言うまでもなく生に対する執着、『生きたい』と願うことだ」 「んなの、誰だってそうだろ」 「そうだな。それを満たす、ということはつまり、死への不安を取り除く事と同義だと言える。今更言うまでもないが、創立以来、死武専はここネバダの地において、自由の学風のもと人と人との闊達な対話を重視し、自主自律の精神の涵養を基本に自重互敬の――――」 延々と続きそうな話に、ゴホン、とソウルは軽く咳払いして割り込んだ。 「入学案内パンフの読み上げはいーから」 簡潔に、と渋い顔で言う。「あ、ああ、」と言葉を途切らせたキッドの、やや残念そうな表情に気付かない振りをする。元々お喋りな性質ではないが、キッドがシンメトリー病の時と同じに演説モード、つまり自分の世界に入ってしまうと後が長いのだ。 「……つまり。武器、職人ともに己の力を引き出しその制御を覚え、世の秩序を学び、世界のありかたを知る。机上の学問だけでなく『生きていく』ための術をここで身につけてゆく」 「それが、生存本能を満たす、ってことになんのか?」 「死武専として与え得るものでは、という前置き付きでだが、そう解釈して概ね問題ないだろう。パートナー制度、チーム構築を通し、人と人との関わりのなかで己の役割を肌で感じ、支え合う喜びを共有する。これによって『群居衝動』『自己重要感』が満たされる」 「ふん」 「知るは楽しみなり、という。伝統的学問分野だけでなくこの死武専でしか学び得ぬ未知の諸分野に対し、生徒達は『好奇心』を抱き学習意欲をみせる」 「……………………」 「なぜ黙る?」 実技はともかく座学においては決して、優秀な成績を収めているとは言い難いソウルは軽く目を逸らして「ソウデスネ」とだけ事務的に答える。その言い分自体には特に、異論はなかった。 「…………それで、ここまでで四つだ」 『生存本能』『群居衝動』『自己重要感』『好奇心』。これまでに四本の指を立てた、キッドの表情がやや曇る。 「五個って言ってたよな」 「うむ……あと一つが、問題で、……だな」 「?」 それまでの雄弁さが嘘のように、言いにくそうに口籠る。あまり見ない様子に、首を傾げ次の言葉を待っていたソウルはやがて、ずい、と真剣な表情で顔を寄せて来たキッドに、たじろいで一歩退いた。 「最後の一つは、」 「? ああ」 「『性欲』、だ」 「せ、……?!」 予想外の単語に、思わず言葉を飲み込む。教育論だか経営論だかの話でまさか、そんな言葉が出るとは想像出来なかった。 「せ…………性欲、な、……へぇ」 それも、キッドの口から。 なんら卑猥な意味も持たぬただの一般名詞だと、分かってはいても妙に意識してしまう。祓ったはずの邪念が再び、頭を擡げそうになる。 「…………保健体育カリキュラムの改善の必要性についてー、とか、……そんな相談?」 桃色に染まりそうな思考を排し、これまでの流れを汲んでできるかぎりお堅い回答を模索する。答えておいてなんだが、それなら微妙に相談する相手が違うだろうという気はしないでもなかった。が、だったら他に何と答えれば良いのか、適切なものが思い浮かばない。 ごく近い位置で、じっと見上げてくる金色の瞳に、心の奥底までを覗かれているようで。 (ち、近い近い……) 不透明な思いを悟られるような気がして。 さりげなくキッドから距離をとり目を逸らす。斜めに見上げたデスルームの空は、いつも通り何処までも青く澄んで、流れる雲は穏やかだ。それはまるで、部屋の主の心のありようを表すように。 人の気も知らねェでな、とソウルはこの純粋に過ぎる主をほんの少しだけ恨んだ。こんな些細な接触に、どぎまぎしているのは自分だけなのだ、と思うと何だか、ときめきを通り越して最早馬鹿らしい。 それは明確に何も伝えることをしていない、己の所為ではあるのだが。 「性欲とはつまり、他者との身体的、精神的な一体化願望のことだろう」 「そう……かね?」 「…………。俺自身には概念的な知識しかない。性的衝動、つまり本能的なものとは異なる、生殖とは切り離されたコミュニケーションの一つとしての、…………そういったものが、恥ずかしながら、よく分からん」 「……はぁ」 「実体験として持たぬものを、他者へ的確に伝えることは難しい」 そう、言ったキッドの頬が、かすかに朱に染まって見えたのは、気のせいだろうか。 「必要、なのではないかと、思う。俺にも、そのような経験が」 「え、…………は、えぁっ?!!」 思いもよらぬ展開を受けて、間抜けな叫び声がソウルの口から洩れ出た。 経験。何の。性的衝動を? 実体験? ……どうやって? クールの欠片もなく、ぱくぱくと酸欠の金魚のような様で絶句するソウルにはお構いなしに、キッドは言葉を続ける。 「いたずらに情欲に流されるべきではない。けれど、規律はそうした人と人との繋がりというものを、排するわけではない。……ただ、俺にはどうも、実感が湧かんのだ。肌の柔らかさに覚える精神の昂り、というものが」 「肌……」 真面目くさった顔でわきわきと両掌を開閉する、キッドのおかしな動きはもしかしたら、拳銃姉妹の胸のサイズ比を思い出してのことかもしれない。 が、それよりもソウルの脳裡には、別のものが過ぎる。 頑なに死神衣装に隠された、透けるような白い肌。 吸いつくように滑らかな手触り。 ひやりとした肌が、触れる手の熱さに応えるよう、薄紅に染まってゆく、その様。 「…………うわわわわ」 実に具体的な想像にまで及んでしまって、かっと頭に血が上る。 自分が『性欲』を抱いてしまってどうする。今問題なのは、キッド自身のことではないか。 個人的な感情からくる邪な妄想を、振り払おうと必死になるソウルを、見詰める金の瞳が、すうっと細まった。 「お前には、分かるのか?」 「へ? あ、いや、ええと?」 「互いを希求する、強い欲望が。温もりを交換することで生まれる、執着とも呼べる想いが」 「……」 「…………そうか」 思わず言葉を探して目を泳がせたソウルの、無言を肯定と受け取ったのか。何かを納得したかのように、言って伏せられたキッドの瞳に長い睫毛が影をつくる。目の淵が少し潤みを帯びて光るさまが、なんともいえない色気を醸していて、くらりとする。 いや、勘違いだ。あるいは雰囲気に流されているだけだ。己の願望で、そう見えてしまうだけの話だ。 (……クールじゃねェ!) 早くなる鼓動を抑えようと、深呼吸のように息を吸い、吐く。そうして必死に落ち着きを取り戻そうと試みる、ソウルにしかし、とどめを刺すかのよう、キッドは言った。 「ならば、協力、してはもらえないか」 さらに一歩、距離を詰める。鼓動が一際大きく胸を叩く。その拍動すら伝わってしまいそうな近さに、焦る。 「協力、」 何を、と問う言葉を思わず飲み込む。懇願するよう上目遣いにソウルを見上げる、金の瞳は確かな熱情を持って、妖しく濡れ光っていた。 「一人では、成し得ぬものなのだろう」 ソウル、と囁くような呼び声に、理性を激しく揺さぶられる。 いつもいつでも、キッドの突飛な行動言動思いつきに、振り回されることばかりが常だ。死神の規律とは、人の常識を凌駕するものなのだ、仕方がない。そんな言い訳を胸に、諦めの溜息一つで肩を落とす、それがこれまでのソウルにとっての、『いつもの日常』だった。筈だ。 (いや、でも、…………まさか、) しかしこの死神はまさか。 自らの言葉の意味を、そしてそれが齎すものを、正しく理解したうえで敢えて、自分を誘惑しているのでは、ないか――――? 「キッ、」 ―――― KILL コン カン コン ――――♪ 「……ん。予鈴か」 ある種の決意でもって、踏みだしかけたソウルの耳にも、無慈悲な鐘の音はしかと届いた。 それまでの、熱の篭った視線が嘘であったかのように。ぱっとソウルから身を離したキッドは、死神の面を元通り被り直すと、「なにをぼんやりしている」といつもとなんら変わらぬ、静かな口調で言い放った。 「………………キッド?」 「授業に遅れるだろう、もう行け」 もうなにも話すことはないといった風で、くるりと背を向けてしまう。鏡越しに見える死神の面の、その下の表情がどんなものなのだか、ソウルにはもう窺い知る術はない。 「ソウル」 同じ単語だというのに、何故にこうも響きが違って聞こえるものだろうか。 名を呼ぶ声音は、少し厳しい。何を置いても『規律』を司る神の御言葉だ。本鈴が、鳴る前に退散したほうが賢明かもしれない。 「…………へーいへい」 白けた声で素っ気無く応じて、ソウルもまたキッドに背を向け、断首台鳥居の方へと足を向けた。 なんだってんだ。 胸の裡で独りごちる。一人取り乱して、一人舞いあがって、馬鹿みてェだな、と。 歩くうち、すっかりと元通りの落ちつきを取り戻してしまった鼓動に、はあっと溜息を一つ。 相変わらず意味のわからない奴だ、と思う。その肩書が『死神様』となっても、そこは変わる事がない。随分近くなったように思えても、キッドには未だ、どこか掴みどころのない所が多い。時に、理解の外の生き物のように思えることもある。 (けどなァ) 変わってきた筈なのだ。二人の関係自体は。初めて顔を合わせたあの時から思えば、着実に。 もう少しだけ、何かを変えられは、しないものだろうか、と。 扉の前に立ち、また一つ溜息をつく。現状に対する諦念と、変化を求めての焦りが。常と何も変わらずどこまでも青く澄んだデスルームの空が、彼の気分を殊更憂鬱にさせた。 |