02 夢を、見ているな、と思う。それは古い夢。ところどころ綻びて埃くさい、けれど決して戻る事のない退屈な懐かしさを伴う夢。 よたよたと覚束ない足取りで、その背を追う。自分と同じ色をした髪を、高い背中を見上げる。舌っ足らずな声で、名を呼べば、応えて彼が、振り返る。 『ソウル』 好きだった。振り返りざまに、浮かべる笑顔が。頭を撫でる広い手が。雨音のように静かな声が。眠れない夜、自分だけのために、紡がれた旋律が。 (――好きだった、のは、……誰が? …………何を?) 遡る。記憶の渦。沈んでゆく意識、暗く昏い闇の淵に、小さく浮かび上がる光の欠片。 今と何も変わらず、あたたかで、穏やかな声が。 告げる。 『俺は、ソウルのピアノが――――』 ――――それは思いだせ得る限り最も古い、最初の、恐怖の記憶、 「……ハ、」 ごく短く、嘲笑のような息を吐き、瞼を上げる。ベッドの上ではなく、肘掛椅子の上。目に映るのはアパートの天井ではなく、しかし最早見慣れたと言ってしまっていいほど、馴染みになった薄暗い部屋。 「ご無沙汰だったと思ったら、こりゃまた随分と……」 足を組み直し、肘をつく。蓄音器からは、いつもの調子外れのジャズは流れていない。 代わりに聞こえるBGMは、キイキイギコギコとヒステリックで軋んだ音だ。 『夢』を、見せたであろう張本人は部屋の奥から、実に楽しげな足取りで、何故かヴァイオリンを抱えて現れた。聞くに堪えない酷い演奏を一通り披露し終えると、恭しく一礼をしてみせる。 「お楽しみ頂けましたかね?」 「懐かしくて涙が出るね」 よくもまああんな古い記憶を引っ張り出してきたもんだと、呆れ半分の視線を、にやにやと笑うのみで受け流す小鬼に、一つ溜息をついて、椅子を立つ。 あれは、いつの頃だったろうか。 カツ、カツ、カツ、と靴音が妙に大きく響く。部屋を大股に横切ると、ソウルを迎え入れるかのように、さっと開かれた緞帳の奥で、これまでいつもそうであったよう、ピアノは静かに眠っている。 鏡面のよう磨きあげられ、傷一つない漆黒の外装。 指先で軽く触れると、表面に波紋のような輪が幾重にも広がり、映り込む自らの顔が揺れた。 特徴的な白銀髪と、赤い瞳。 けれど、こちらをじっと見詰め返すその面立ちは、自らのものではない。 正確にいえば、『今のソウル』のものではない。今の彼より遥かに、幼い子供のものだった。 「知ってるか?」 それは、小鬼への呼びかけでもあり、ピアノに映る過去の自分へ、語りかけるようでもある。 「俺もさ、ヴァイオリン弾いてた頃とか、あったんだぜ」 呼び起される遠い記憶。 兄の背を、追い続けた過去。 織り成される日々は、必ずそこへ続くのだと、信じて疑わなかったあの頃。 「何言ってんだ。当たり前だろ?」 感傷的な空気を、遮るように小鬼は言う。 「ここは暗闇と狂気の小部屋、ブラックルームだぜ。古かろうが新しかろうが、お前さんの狂気はいつだって自由に閲覧可能さ」 「誰も頼んだ覚えはねェけどな」 うんざりしたように返した、ソウルがふと真顔になる。 「……狂気、だと?」 問いかけには答えず、小鬼はただにやにやと薄笑いを浮かべ、小脇に抱えていたヴァイオリンを、ソウルに押しつけた。 狂気。 それは、最初の恐怖と絶望とを苗床にして、 あの頃から、既に? 「………………」 そんな考えを払うよう、軽く頭を振って、受け取った弦楽器を眺めたソウルの、唇の端がゆるりと持ちあがり、笑みの形を作る。これまた懐かしい、子供用の分数ヴァイオリンだ。 それはただ懐かしく甘いばかりの、遥かに遠い過去ではなく。 かといって、未だぱくりと口を開けた生々しい裂傷というわけでもない。 癒えかけの傷、剥がれかけのかさぶた、時折無性にどうしようもなくなって、掻き毟ってはうっかり血を滲ませるような、そんな感傷。 そんなものを、いまこのタイミングで、態々用意するとは。 「お前ってさ、――……」 小鬼に何か言いかけて止め、言葉を続ける代わりにソウルは、今の身体にはもう小さ過ぎるヴァイオリンを、鎖骨に乗せて顎で挟む。 慣らすよう、軽く弓を引くと、軋んだ音をたてた。そう、最初の頃はいつも、こんな音だった。 頭に浮かんだ楽譜をそのまま、音に変える。紡がれる調べに、傍らの小鬼が一瞬何か物言いたげな顔をしたのが分かった。 ショパンの練習曲作品10第3番ホ長調、――『別れの曲』、だ。 (流石に、鈍ったか) あの頃のようには手が動かない。それでも、記憶を頼りに弓を引く度、解かれてゆく記憶。 美しい、とはとても言い難かった旋律が、次第に滑らかになる程に、兄はその上達を称え笑顔を零した。 好きだった。だからその背を追い続けた。そう在る事が“正しい”のだと、信じていた。 その道はどこで、分かたれたのだったか。 弦を押さえながら、思い出されるのは運指法だけではなく。 『ソウル』 面影が、過ぎる。 同じ色の髪、少しだけ赤の濃い瞳、どこにあっても絶やす事のない柔らかな笑顔、 『俺は、ソウルのピアノが、』 諭すような静かな声。 あの言葉は、なんと続いたのだったか、 ――――記憶をたどるまでも無くごく自然に、その言葉は脳裡に蘇った。 『好きだよ』 最後のフレーズを弾き終わる。しばしの余韻の後、構えていた腕とヴァイオリンを降ろし、軽く首を回す。 「お前がどう思おうと勝手だけどよ」 掛けられた小鬼の声は、いかにも面白くなさそうな口調だった。 「恐怖は消えねェ。狂気はなくならねェ。例えお前の中から黒血が消えようと、ピアノは、俺は、この部屋は、『お別れ』になんざならねェぜ」 「……ああ、そうかい」 可愛くねェ奴だ、と思いながらヴァイオリンと弓とを、傍らのピアノの鍵盤蓋の上に置いたソウルは、くつくつと押し殺すようにして笑う。 このピアノが、ひどく懐かしい子供用ヴァイオリンが、そうであるのと同じに。 真っ黒な部屋も、胡乱な小鬼もすべて、自分自身の象徴だ。失われないのは当然であるし、まして可愛くなぞ思える訳がない。 そんなこんなも全てひっくるめて引き摺っていってやる、そう誓った筈ではないか。 一頻り笑い終え、はぁっと深く息を吐く。 そっと触れた、ピアノの表面はもう揺れなかった。映り込むのは過去の亡霊ではなく、確かに今ここに在る、『ソウル”イーター”エヴァンス』の容貌だった。 (結局、変われねェんだ、な) 楽器も。音楽も。魂も。 道はいくつもあるようでいて、いつでも自分の足の下にしかない。それを選んでいるのだと考えるか、選ばされているのだと考えるか、ただそれだけの違いでしか、ないのかもしれない。 ふ、と溜息のような息をつく。 兄とは違う、自らの音。魂の旋律。 幼い憧憬の影で、確かに芽生えた恐怖。 理想への道程を、失う事で初めてその存在に気づかされ、喪失の中でその意味を問うたあの日。 それでも、あの言葉は始まりだった。それは絶望、ではなく――――未だ掴み得ぬ、己の道の。 「おっと、時間だ」 小鬼の声を合図にして、意識がふわりと揺蕩うような感覚があった。足元がすべて失われる。目に映る景色は残らず色褪せ、闇色に塗りつぶされてゆく。 それはこの部屋から、切り離される先触れだ。 「……結局、お前、何しに来たワケよ?」 『別れ』など、ないのだと言った。 意識だけが頼りなく浮遊するようななかで、小鬼の言葉を反芻する。 「決まってンだろ」と、応えて小鬼はにやりと歯を見せた。 「緊張と興奮で眠れないソウル君の為に、ママのおっぱい代わりの子守歌を届けにな!」 「…………オッパイはもういーっての……」 げたげたと笑う小鬼の声が。周囲全ての音が、次第に遠ざかる。 きっと、終わりなどないのだろう。 視界が暗く、閉ざされる間際。じゃあまたな、と、扉を閉めた小鬼の嘲笑うような声が、小さく消える。 全てにおいて、終幕などない。 抗えぬ大きな流れの中で、それでも確かに、何かは繋がっているのだろう、けれど。 いつまでも耳に張り付いて消えないそのしゃがれ声を、聞くことはもう無いのかもしれない、と。 薄らと思いながら、ソウルは意識を手放し、眠りの底へ落ちた。 |