life goes on


00

「楽器はね。自分の『好き』なものを選べばいいと、俺は思うよ」
 何気なく発した一言に、弓を持つ手をぴたりと止めて、弟はきょとんとした顔で兄を見上げた。
「ソウルはさ、ピアノの方が好きなんだろう?」
 より分かりやすく、指摘してやれば彼の顔からはあどけない笑みが消え、虚をつかれたような表情はやがて、どうしていいか分からないといった風に困惑に歪んだ。

 なんで。

 あるいは責められているのだと、感じたのかもしれない。
 呟いた言葉には、いくらかの思いが重なりあっていた。
 何故、そう感じたのか。
 何故、気付かれたのか。
 何故、ヴァイオリンではいけないのか。
 疑問は、同時に彼の言葉を肯定してもいた。その全ての意味を汲んで、ウェスは少し困ったような顔で、しかし穏やかに弟に笑いかけた。
「なんでも俺と同じじゃなくてもいいんだよ、ソウル」




 何処へ行くにもできる限り弟を連れて回る、少しばかり弟に甘い兄、というのが家族のウェスに対する評価であり、そしてそれは、正当なものだという自覚も本人は持っていた。
 喧嘩らしい喧嘩もした事がないのは、ひとえに年齢の差によるものだろう。不在がちな両親に変わり、弟の面倒をみるのは自分の役割だと、ウェスは自然に思っていた。それは長兄として当然のことと言えたし、単純に、年の離れた兄弟のくるくると変わる表情が、子供らしい素直さと我儘が、相応に可愛かったというのもある。
 寝付きが悪くぐずる夜は、子守歌代わりによく、ヴァイオリンを弾いてやった。
 そうやって、自分のヴァイオリンに聞き入っている時のソウルは、だいたいにおいていつも上機嫌で、有体に言って、幸福であるように見えた。

 物ごころつくころには、弟はいくつかの楽器に興味をもち、自発的に練習をするようになった。なかでもピアノと、そしてヴァイオリンに特に執心しているように見えるのは、環境がそうさせたのだろうとウェスは思う。
 弦楽、管楽、鍵盤。両親の代より以前から、エヴァンスの家のものが皆そうであったように、弟もまた何某の楽器を選び、その道を歩むのだろう、とウェスは感じていた。それは好む好まざるに関わらず、予め定められているようなものだ。
 そして彼は、兄の欲目を排してなお、弟の音を、その才能を純粋に愛していた。自らのレッスンの合間に、弟の手ほどきのようなことををしてやっているのも、彼の個人的な希望からくるものだ。


「…………なんで?」
 もう一度、ソウルは先程の言葉を繰り返した。先程より怯えの色は薄らぎ、今は純粋な疑問と、少しばかりの反発が言葉の中に見て取れた。
 子供ながらに理不尽を感じているのかもしれない。そう思い、ウェスはソウルの傍らに片膝をついた。既に大人と変わらぬ背丈をもつ兄の、目線が自分と同じ所まで降りてきたことで、ソウルの動揺がほんの少し和らぐのが分かった。
 弟に、ヴァイオリンの才が無いわけではない、とウェスは思う。
 たどたどしかったボーイングは漸くサマになってきたし、演奏は既に学芸会のお遊戯レベルを脱していた。とりあえず叩けば音が鳴る、という鍵盤楽器と違い、「音を出す」ことがまずハードルとなるヴァイオリンだということを考えても、彼の見る限り、その上達は比較的早い方だと言えた。

 楽器の適正は、最終的には本人の好き嫌いで決めるものだ。自らの軌跡を振り返れば、やはりヴァイオリンに心を決めたのは、いまのソウルの年齢であったように思う。
 その選択に少なからず、兄である自分の影響があることは明らかで、そのことを嬉しく思ってしまうのも確かだった。しかしソウルが自分と同じヴァイオリンを選ぶこと、それが『正しい』選択であると言えるのか、それが真に弟の望むところであるのかどうか、判断はつきかねた。
 だから彼は、自分の感じたところをそのまま言葉にしてみせた。ただ、それだけだ。
「だって。ソウルはピアノを教わってる時の方が、いきいきした目をしてる」
 果たしてそれは、真実の一端を掴んでいたのだろう。ウェスを見上げるソウルの目が、戸惑うように揺れていた。正しいと信じたものを、否定されることの恐れが見て取れた。

 演奏には、楽器の特性を引き出し、その反応によく耳を傾け、楽器と一体になって奏することが求められる。
 ヴァイオリンがいい、と言ったことは、決して嘘ではないのだろう、と思う。けれど、ウェスが聴く限り、弟が好んで練習する楽器には、その奏でる音の温度に、明確な差があった。『自らが積極的に弾いている』感のあるヴァイオリンと、『楽器が自然に鳴り始める』ような広がりを見せるピアノ。どちらがより適性があるのか、判断することはそう難しくはなかった。
 だから、あとは、気持ちの問題だけだ。
 顔を覗きこむようにして、じっと目を合わせ、ウェスは彼の頭にぽんと掌を置いた。
「そりゃあ、俺だって、ソウルとデュオができたら楽しいさ。でも、……そうだな、違う楽器だからこそ、奏でられる音色だってある」
「………………けど」
「……ソウルのピアノで、ヴァイオリン・ソナタを演奏してみたいな?」
 言いながら、搦め手だな、と思った。願うままに進めばいいと、言われても今のままではソウルはきっと、ヴァイオリンを選ぶ。選んでしまう。それはもう、理屈ではなくそうなのだろうと、分かっていたからこんな物言いを、するしかなかった。
 しばし惑いを見せたソウルの目が、やがてまっすぐにウェスを捉える。
 兄と同じ色、けれど少しだけ明るい赤をした瞳でウェスをじっと見詰め返した後、ソウルはむうっと膨れっ面を作ってみせた。
「ずるいよ、そんな言い方」
「そうかな」
「そうだよ!」
 珍しく、反抗的な物言いをして、睨むような目で見上げてくるソウルに、ウェスは小さく苦笑した。
「ゴメンな」
 宥めるように、わしわしと広い掌で弟の頭を撫でる。自分と同じ色をした白銀髪から、あたたかで乾いた日向の匂いがした。
「でも、さ。俺はソウルのピアノ、好きだよ」
 それが心からの言葉だ、という事が分かるのだろう。ソウルの目に、一瞬過ぎった懐疑はすぐに消え、表情からやや険が取れる。本当だよ、と念押しするように言って、ウェスは弟の音を思った。
 やっと滑らかに指が動くようになり、思い通りに音が溶け合う感覚に、子供ながらに喜びを感じていることが、聴く側にも明らかな旋律。
 伸ばした指が無理なくオクターブを押さえ、補助台無しでもペダルに足がつく頃にはもう、楽譜に描かれてある作曲家の意図を的確に理解し、さらに自分の心と肉体でろ過して思い通りに表現する、という工程を、何の苦もなく行えるようになるに違いない。

「……うん。ソウルの音が、好きだな」
 けれど、そういった技術的なもの、だけではなく。
「それが、どんなものでも。旋律は、奏者の魂の断片だから」
「たましい……?」
 それを最も美しく紡げるもの、それが自分にとってのヴァイオリンであり、弟にとってのピアノ、なのだろう。
 軽く首を傾げてみせる彼が、自らそうと気付く日はいつになるのだろうか。そんな事を思いながら、ウェスはもう一度、ソウルの髪をくしゃりと撫ぜた。
「ソウルには、ソウルの道がある。父さんとも母さんとも、勿論俺とも違う、ソウルにしか歩くことのできない道が。きっとあると、思うんだ」
「道?」
「そう、道。…………どの楽器を選ぶかが問題じゃない。その先のもっと、大きなものが」
「……わかんない、そんなの」
「そう。……そうだね、俺にもよく分からない」
 あっさりと、自らの言葉をうっちゃってしまった兄を、ソウルはぽかんとした顔で見返した。
 自分で言ったことが、分からないなんて。兄にも分からないことが、あるなんて。
 そんな弟の表情を認めて、ウェスは可笑しそうに言った。
「俺にだって、分からないことはいっぱいあるよ、ソウル」
「…………そうなの?」
「そうさ。難しいことは沢山ある。自分の道だとか、…………生きることの意味だとか。そんなのはいつか、大人になれば分かるかもしれないし、ずっと分からないかもしれない」
「……」
「そういうものの、答えを探して、人は歩き続けるのかもしれないね、……っていうのはさ。教科書なんかの受け売りだけど」
 いつかソウルにも分かるよ、と付け足して、ウェスは陽気に笑う。その手から、ヴァイオリンを取りてきぱきと収納してしまうと、茫然としたままの弟を、ひょいと抱きあげる。
 まだ歩みがおぼつかないころ、彼はよくこうして、弟を抱いてあやしてやったものだった。背はまだまだ小さいとはいえ、すぐに自分に追いつくのだろう、と思うと、抱えた重みはなにか、感慨深いものに思えた。
「よし、じゃあ、休憩にしよう。休憩」
「! わっ、ちょっ、……ウェス! お、下ろせよ! 子供扱い、するなったら!」
 じたばたと暴れる弟を気にした風でなく、今日はメイドが休みだったな、と考え込んで、「よし」とウェスは言った。
「俺がお茶を淹れてあげるよ」



 ――……そして家事に慣れぬ兄の入れた紅茶は、というと。
 葉の分量は適当で、しかも蒸らし過ぎて渋くなってしまい、弟の機嫌を盛大に損ねる、残念な味になったのだった。