ランケット


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 闇に紛れて、人の気配がした。
 目を開けずとも、傍らに佇みじっと自分を見降ろしているものが恐らく、ひとでは無いものであろうということが、分かることが不思議であり、だから自分はまだ夢の中なのだろうとソウルは朧げに理解した。
 覚醒前、深度の浅い眠りへと移行する時に見る、鮮明な色のついた夢。
 それは直近の思考を反映するというから、――だから自分はこんな夢をみているのだろうか、と、ソウルは佇む気配に意識を遣る。
 纏った漆黒の隙間から垣間見える、死人の如く色のない、透けるような白い肌。しかし瞬きもせずただ一点を見詰めるその瞳は、生ける屍のもののよう虚ろではない。
 冴え冴えとした月光を思わせる金の双眸には一体何を映すのか。命の灯。魂の揺らめき。或いは己を構成するもっと本質的ななにか、だろうか。確かめてみたくとも、己の瞼は鉛のように重く、ただ間の抜けた寝顔を晒し続けるのみだった。
 その使命を遂行するための確固たる意志を持ち、ただ静かに時の訪れを待つ。
 音もなく忍び寄る死というものを、可視化することができるならそれはきっと、こんな形をしているのだろう、――と。
 瞼の裏に形作った姿が彼の恋人と同じ輪郭をとったところで、不意に足元がひやりとした。
 冷気が肌を撫でる感触に、瞬く間に夢から現に引き戻される。
 何者かにブランケットを捲られ外気が入りこんだのだと、気付き軽く体を震わせて足を縮こめたソウルは、ふっと息だけで笑う微かな音に、瞼を薄く開けた。
「……?」
 ぼやけた視界に映るのは先程と同じ誰もいない室内。傍らの気配は消え失せていて、しかしその代わりに足元ではもぞもぞと、何かが潜り込んでくるおかしな感覚がする。
 彼の眠りを妨げた張本人は、しばらくブランケットの内側でごそごそとした後、やがてひょこんと頭を出した。
 ソウル目の前にあるのは、先程思い描いた恋人の顔。その身体の上に圧し掛かるような体勢で、キッドはそこに居た。
「起きたか」
「……そりゃ……起きるでしょーよ」
 何事かと眠い目を擦って眉を寄せる。いま何時? と口の中で呟いて、時計の方へと目をやろうとしたソウルに、キッドが覆いかぶさってくる。彼の視界を塞いだ恋人は、ほんの一瞬唇に温もりを降らせてすぐにまた身を離し、呆気にとられたようなソウルを見下ろして愉快そうに口角を引き上げた。

「ただいま」

 いつになく弾んだ声が不思議だった。
 彼が馴染みの姉妹を伴って任務にあたる時は、大概こうして日を跨ぐほど遅くなる。
 だのに今日のキッドは疲れも見せずどうしたことか、いつもより数段機嫌が良さそうなのだ。
 何か良い事でもあったのかもしれない。出先でシンメトリーなものでも見つけたのだろうか、と欠伸を噛み殺し二、三度瞬きをして、漸くクリアになった視界でソウルは恋人の笑顔を見上げる。
 気紛れに見える行動にも、いつだって何か理由がある。それを常に理解し把握することは、正直なところ困難ではあるのだが。
(でも、……分かりたいから、一緒にいるんだろ?)
 今に始まったことじゃねェや、と或る種の諦観でもってソウルは思考を打ち切った。考えるよりまず、言葉で行動でもって示す事が有効なのだと言う事を、彼は恋人と重ねた時間の中で学習していた。
「…………おかえり。どした……テンション高ェじゃん」
 問いかけながらキッドの身体に腕を伸ばし、夜霧を吸って冷えた身体を温めるべく引き寄せる。
「ん? いや。……懐かしいことを、思い出したんだ」
「……何?」
「いつだったかも、こうして二人で」
 言いながら、金の瞳が柔らかく細められる。
 曰く、過去にもこうして毛布を被り、二人して身を寄せ合い寒さを凌いだ事があったというのだ。
 はてそんな事が、あったろうかと胸にキッドを抱きとめながら、気付かれぬようソウルは視線を泳がせた。
 一緒に暮らし始めるより前? 出会ったばかりのころ? それとも――
「――ちょ、擽ってェよ。……じっとしてろ、っての」
 じゃれつくようにキッドが頬を擦り寄せ、記憶の糸を手繰る作業は中断される。頭の後ろ側辺りに引っ掛かった何かは、手にする前に霧散した。
 軽く首を捻ったソウルに、彼の恋人は少しの幼さを含んだ悪戯な微笑を浮かべてみせる。
 ただ二人で居られることがこんなにも嬉しいのだと、嬉しくてたまらないのだと、身体中で表現しているかのような、子供のような無邪気。そんな純粋で真っ直ぐな愛情表現は、受け取る方もこのうえなく幸せにさせるものだ。
 少しだけ戸惑ってしまうのは、キッチリと着込んだままのスーツが皺になるのではないかと人ごとながら気を使ってしまう、ただ、それだけで。

――――ただ、それだけ、か?

 胸を過った問いかけを、ソウルは意図的に無視して恋人の髪を優しく撫ぜる。今日の任務はキッド以外には困難なものであったのだろう、と言う事だけは何となく察し、だからこそできるだけ労わってやりたかった。
 先程頬を擽った滑らかな黒髪に、ほんの僅かに残った血と硝煙の臭い。
 キッドの扱う魔拳銃は火器を模しているだけで、実際に火薬を使うものではない。
 ならば臭いが移るほどの硝煙弾雨の中を。身体に傷一つ、衣服に綻び一つ作らずどれだけの命を血煙へと変えたのか。
(そんでも、――あんだけ嬉しそうに、笑えんだ)
 勝利の高揚、生還の安堵――違う。そんなものは限られた範囲での生しかもたない自分達人間の発想であり、そして彼には必要のないものだ。
 与えられた仕事を期待されたよう遂行する。息をするように当たり前のことであり、日常風景のひとつであり、心を砕かなければならないような類のものではない。殺意すら抱かぬなら、彼の心は疲労しない。
 そして世界はまた少し、彼の、彼等の望むような秩序を持ったものへと、そのバランスを回復したのだろう。

 さらさらと、闇色の髪がソウル指の間を擦りぬける。そうすることで安らぎを得ているのはキッドではなく自分の方だと、分かっていながらただ無心に恋人の髪を梳く。
 気付きたくないのだ。彼と彼等の掲げる正義というものを、いつしかただ力学的均衡の手段として受け容れなんら心を動かすことのない、自身の凡庸と、欺瞞に。