03 「ソウル」 たゆたう意識が呼び戻される。耳元で自分の名を囁いた、恋人が『どうしたんだ』と言いたげな瞳で、可愛らしく小首を傾げる。そしてその表情がにわかに曇ってゆくのを見て、ソウルは今自分が憂慮すべき事柄は何であったのかという事を漸く思い出した。 「…………そうか。そうだな、昔の話だ、」 「う、ぇ、――いやいやいや。そんなこと」 忘れてしまったのだろうと、彼が口にする前にその頭を抱き込む。言葉を遮られ、胸元で不満気に唸ったキッドの髪にキスを落としながら、さてどうしたものかねとソウルは継ぐべき言葉を考える。 とかく潔癖な恋人に、嘘はいけない。 第一、そんなに簡単に誤魔化されてもくれないだろうしな、と思いながらキッドの前髪を軽く掻き分け、「ゴメン」という囁きと共に今度は額に口付けた。 「ちーっとばかし、……アタマ回んなくて」 「やはりな」 「いや……その。忘れたワケじゃ、ねェんだけど」 言い訳のように言葉をつないだソウルは、多分、と苦笑いして人差し指で頬を掻いた。 ああ、あんま良くない流れだな、と。分かっていても、これといった解決策も見出せない。 かといって、こんな空気のままふたり、久々のオフを過ごすのも御免こうむりたいのは確かだ。 「……もういい。無理に思い出さずとも」 不機嫌に顔を背けようとする、恋人の頬を両手で挟む。覗き込んだ瞳は、一瞬躊躇いに揺れたあと、仕方ないといったように閉じられた。 そっと唇を合わせ、離す。 触れるだけの優しいキスを交わし、ゆっくりと開かれた瞼。じっと自分を見詰める金色の瞳にはやはり、『この程度で誤魔化されると思うな』の意志表示があったから。 困ったように小さく笑んで、ソウルは再びキッドの頭を抱き込み、そしてブランケットを引き上げたかと思うと自分の頭まですっぽりと覆ってしまった。 「――ソウル?」 「なんか……こうしてれば、思い、出す、かも………しんな」 ふぁ、と欠伸で途切れた言葉に、腕の中でキッドが小さく苦笑する。 「欠片もやる気を感じないな」 「んーなこと、……ねー、って……」 寝室に行けば広いベッドがあるというのに、決して広くは無いソファの上。二人抱き合って頭から毛布を被るその様を、どこか滑稽に思わないでもないが、じわりと移る体温の心地よさにキッドも抵抗を諦めたのか、大人しくその腕に収まる。 しんと静まり返った室内に、夜風が勢いを増したのだろう、かたん、と窓枠の揺れる音が響く。 外は寒い。ここは温かい。 (このまま、どこへも……、……?) 浮かんだ言葉が、とろとろと溶けてなくなっていきそうな意識の底に、かすかな既視感となり引っ掛かる。 屋敷。庭園。秘密の屋根裏。 薄闇の中で一つになる二つの呼気と、微かな風の音。 確かにいつかもこうやって、温かななにかに身を包み、誰かと寄り添いあったことがあったような、気がして。 忘却と記憶の狭間に沈む、透き通ったか細い声は自分のものであったのか、誰かのものであったのか。そんなことさえあやふやな遠い過去にまさか、――キッドと自分の交差地点が。 唐突にも思えるそんな考えが、沈みゆく意識を懸命に繋ぎ止め、記憶を過去へと巻き戻す。 幼くして既に多くの音楽祭、オーケストラ、各地主要ホールからの招待を受けていたウェスと、共に訪れた異国の地。 低い視点から眺める空がひどく高く、地平は彼方に遠く伸びていた、あの頃。 見知らぬ景色のなか、互いの言葉もよく分からぬまま、ほんの僅かなひとときを過ごした名も知れぬ友人たちのなかにもしや、この小さな死神が―― (――かもしれない、……けど) 面影も朧げなその誰かが、この腕の中の恋人であったのかどうか。 確信はやはり持てなかったが、霞みがかった記憶の向こうに、伸ばしかけた手を止め、そして下ろす。 世界がどこまでも高く、広く、深かったあの頃から。何一つ損なわれず、輝きを放ち続けるものが例えあるのだとしても、――失われ二度と戻らないものもまた同様にあるのだと、悟ってしまう事を少しだけ恐れて。 抱きすくめた恋人の背を優しく撫で、その黒髪に顔を埋めてソウルは目を閉じる。 「……ぬくいな、お前」 「それは、――――」 おまえといるから、あたたかいんだ、と。 小さく呟いた言葉は確かにどこかで、聞き覚えがあった、けれど。 「…………そ、……だな……」 追想の中、やわらかな輪郭が浮かびあがるより先、穏やかなまどろみへと誘われて、ソウルの思考は闇に溶けた。 |