Nightmare


02

「なんだよ、お客様は放ったらかしか」
「……ソウル?」
 私室に戻り、ソファに身を沈めたところで不意に聞こえてきた声に、キッドは一度は閉じた瞼を薄く開けた。視界の端に黒い人影が映る。いつのまにそこに居たのか。ひとの気配はしなかったように思ったが、とキッドは額を押さえ、未だ巡らない頭を軽く振った。
「来ていたのか」
「お前が呼んだんだろ?」
「そう……だった、か」
 なにしろ今日は来客が多くてな、とソファから身を起こし、緩慢な動作で立ち上がる。そんなことを指示したような気もするし、誰かが部屋で待つよう案内したのかもしれない。
 疲れが出たのだろうか。ぼんやりと記憶を辿ってみるが、やはりはっきりとは思い出せなかった。
「ま、いーけどさ。……どお、これ」
 言いながら、ソウルは身につけたマントをばさりと翻し、恭しく一礼した。タキシードの上に羽織る襟の立ったマントは、漆黒の表地に真紅の裏地が目を引く。それに加えて、その口元。
「吸血鬼、か?」
「似合うだろ」
 ニィと笑う、彼の特徴的な尖った犬歯は、口を閉じても覗くほど明らかに常より長く鋭いものになっていた。
 樹脂で出来た、紛い物の牙を被せているのだという。
「確かに、よく出来ている」
 触れようと伸ばした手を絡め取られ、その甲にキスを落とされた。擽ったさに少し目を細め、気障だなと呟いたキッドにソウルは笑みだけで応え、そのまま慣れた動作でマントの内側へ抱き寄せる。近づく距離に、自然、目を閉じたキッドは、交わした口づけの僅かな違和感に眉を顰めた。
 唇に残る、硬い牙の感触。恋人同士のキスには邪魔なそれを唇から覗かせて、お菓子をくれなきゃ悪戯するぞ、とソウルが耳元で低く囁いた。
「菓子なら、下に用意したものが」
「んー。ほんとはお菓子より、さ。もっと甘いのが欲しい、かな」
「甘いもの……?」
 瞳に疑問の色を浮かべた恋人の頬に、軽くキスを降らせながら、ソウルはその赤い瞳を悪戯に細めた。
「この格好見て分かんねぇ?」
「……吸血でもする気か?」
「そ。……血をくれなきゃ、血を吸うぞ、と」
「戯け、どちらも同じではないか……ン、」
 ソウルの長い指が、頚動脈をなぞるように首筋をゆっくりと伝い降りていく。その指先がもたらす感覚の甘やかさに、キッドはぞくりと背筋を震わせた。
「よせ、ソウ、ル……戯れが、過ぎるぞ」
 シャツのボタンを一つ外したその手を押し止め、無意識に部屋の扉へ目をやったキッドに、心配性だなと薄く笑い、ソウルは少し寛げた襟元に顔を寄せる。
「誰も来やしねぇよ」
「そういう……ことでは……、」
 首筋を冷たい唇が這う。軽く歯を立てられ、咎める声が次第に掠れた吐息に変わってゆく。甘い喘鳴に震える喉元に、牙の覗く唇を寄せて、赤い瞳が酷薄な笑みを浮かべた。



――――っ!!」
 声も無く、キッドの白い喉が大きく仰け反る。それは情交の甘い予感にではなく、予告なく訪れた焼けるような痛みに。
――何が、起こった?
 正常に状況を判断できず、恋人の名を呼ぼうとして、微かに開いたキッドの唇からはひゅうと乾いた音だけが漏れた。
 熱された鉄の楔を打ち込まれたかのような、気の遠くなる程の激痛。しかしそれ故に気を失うこともできず、ただ意識だけが明澄としていた。首筋に顔を埋めたソウルの、喉が動く音がやけに大きく耳につく。
 啜られている。自らの血を。それこそまさに吸血鬼のように。
 だとすると、喉笛に食い込んでいるのは、あの、紛い物の牙か。そんなものが、人の、ましてや死神である自分の肌を食い破れるわけが。
「…………、……、」
 発した声は音にならず、息を吸うことも満足に出来ずに込み上げる苦しさが胸を圧迫する。こくりと血を飲み干す音が耳に届くたび、全身から力が奪われていくのが分かる。立っている事ができなくなり、床に崩れ落ちようとする身体をソウルの腕が抱きとめる。やがてソウルのシャツを掴んでいた指がはずれ、腕は重力に従ってだらりと下がった。