Nightmare


03

 指一本さえ自分の意思で動かす事の出来ない状況に内心歯噛みしながら、キッドは唯一自由になる視線だけを室内に巡らせる。何らかの力が働いているのだろうか。窓は薄く開いているのにも関わらず、あれだけ賑やかだったひとの声は一切聞こえてはこない。空気の流れが止まっている。まるでこの部屋だけが外界から遮断されているかのように。
(結界、か?)
 誰も来ないと言い切った、余裕に満ちたソウルの声を思い出す。
 ソウル。
 視界に目の前の男の魂の形を映し、ともすれば遠のきそうになる意識を繋ぎ止める。間違えるはずなどない。その波長は、ソウルのものだ。
 しかし、ここに在るこれは何だ。ソウルでは、ないのか。
 魂の擬態。
 そんな言葉がキッドの脳裏を掠める。そんな事が、果たしてできるのかは不明だが、目の前の事象に説明をつけるならばそうとしか言い様がなかった。
 ソウルプロテクトの一種、なのだろうか。
 考えたくはないが、魔女の技術がそこまで進化しているのだとしたら。
(この事を、伝えなくては、一刻も早く、)


「……か、は…ぁ………!」
 穿たれた牙がさらに深く沈み、キッドの思考を途切れさせる。ぼやけた意識が痛みによって引き戻され、掠れた呻きが漏れた。もうどれぐらいの血を失ったのか。視界は徐々に霞みがかり、身体は体温を失いつつある。ごくりと一際大きく喉が鳴り、やがてソウルが首筋に埋めていた顔を離しても、キッドはその腕を上げる事すら出来なかった。
 首筋に残る二つの噛み痕から、鮮血が首をつたい真っ白な襟元を朱に染める。
「……ああ、勿体ね」
「うぁっ……」
 流れた一筋の朱をぺろりと舌で舐め上げられて、痛みとも疼きともつかない感覚がキッドの背を這い上がった。声に混じる艶を聴き取って、ソウルはにやりと笑い、唇の端に残る赤を親指で軽く拭った。己の流した血液と、それを舐め取る舌の鮮やかな赤がキッドの視界に焼きつく。
 彼の瞳と同じ赤。
 胸中に湧き上がる嫌悪感は、愛しいものの姿を借りた何かに対するものなのか。そんなものを少しでも、同じだと感じた己に対するものなのか。
「怖ぇー顔」
「……きさ、ま…はっ……」
 恋人にするように優しくソファに横たえられたキッドは、そのまま己の身体に覆い被さってくる男をきつく睨み付けた。
 貴様は、何だ。
 声にならない思考を読み取って、ソウルの形をしたなにかは酷く楽しげに、俺はお前の望むものだよ、と歌うように囁く。その唇を先程穿った首筋の痕に寄せ、今度は優しく吸い上げた。

「………………!」

 変化は唐突に訪れた。
 奪い取られていく熱が、奪い取る彼の熱と混じり、溶け流れて脈打つ。境界はおぼろげになり、肉体が、精神が、存在の全てが混じり合っていくような錯覚。
 それは温度を失っていく身体に、熱く甘い恍惚を呼び起こし、意識はかつて無いほどの多幸感に支配されていく。
(まやかしだ、)
 目の前のものが、愛しいものであるはずなど、ソウルであるはずなどないのに。
 吐き気を催すほどの嫌悪感を覚えながら、同時に強く惹かれている。続けざまにもたらされる感情の波に飲まれ、憎悪と愛情が絡み合う。
「……俺が欲しいだろ、キッド」
 甘美な囁きが聴覚を侵し、酩酊する精神が誘惑に揺れる。
 違う、違う、目の前のこれは、俺が本当に欲しいものなどではない。
 低く体の奥へ沈んでいくその声も。優しく髪を梳く仕種も。その魂さえ、彼と寸分違わぬというのに。
「…れ、が、……など……!」
 まやかしでもいいと、願う心を振り払うように、喉の奥から絞り出した声はひどく震えていた。
 どれだけ願っても手に入らないと知っているのに。
 それでも、許されるというのなら。
 理性と情動が混濁し、バラバラになりそうな自我を意志の力だけで保とうとするキッドをせせら笑うように、残酷なほど優しい声音が降ってくる。
――お前が俺を呼んだんだ。
 耳に届いたその言葉を最後に全ての音が遠くなり、体中の感覚が消失した。
 視界が闇に同化する。
 伸ばした指の間を砕けた思考の欠片がすり抜け、そのまま意識は暗闇の淵へと沈んでいった。
(そうだ、俺は、ただ欲していた、)