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がんばれ吟遊詩人! 〜ラヴェル君の場合〜

第八話:予兆(前編)

 一行の左側を川が流れている。チロチロと水が涼しげな音を立て、草むらからは虫の音が響いてくる。
「参ったなーー……すっかり遅くなってしまったよ」
 ケルティア王国中部、豊かなマンスターの地には珍しく岩肌が露出する川沿いの道。
 道は山の麓を南から北へと続いている。
 ラヴェルとレヴィン、ルキータとアルトの一行は、道中に小耳に挟んだ山奥の洞窟を探しに向かっていた。
 何でも最深部には宝があるという噂で、アルトに押し切られる形でそこへ向かうことになったのである。
 残念ながら同行は願えなかったがフィンに大体の周辺地図を書いてもらい、それを頼りにその洞窟を探そうというわけだ。
「チッ……また野宿だな」
「えーっ! またぁ?」
 辺りはすっかり暗くなっていた。
 次の町はまだ遠く、かといって前の町に戻るにもやはり遠い。
 前の町を発ったときに途中で暗くなることは予想していたが、お宝と聞いて他のことは何も目に入らないアルトにほとんど追い立てられるように出発して来たのだった。
「わかったよ、オレが薪を拾ってくるよ」
 ルキータの責めるような視線を受け、アルトは渋々、自分から野宿の準備をかって出ると焚き火の用意を始めようとした。
 ……が。
 何かが聞こえた。すすり泣く声。
 全員の視線が一点に集中する。

 ――いた。

 少し先の川岸。暗くてわからないが、誰かがしゃがみ込んでいる。
 目を凝らして見ると、どうやら女性のようだ。
 後姿なので顔はわからないが、伸びた髪はぼさぼさ、かなりやつれた様子で憔悴しきっている。
 風と水の音に混じり、か細いすすり泣きが止むことなく漏れてくる。
 その声と姿、辺りの雰囲気が微妙に混じり合って何とも言い表せない不気味さを醸し出していた。
「何やっているんだろ? こんな時間に」
「………………」
 独り言のようにラヴェルは背後に尋ねてみたが返事はない。
 怖い物見たさも手伝ったか、ルキータはアルトの後ろに隠れてその様子をうかがい、アルト自身も横を向き、目だけはその川岸に向けられている。 
 ラヴェルもしばらく黙ってその川岸の女性の様子をうかがっていたが、背後の微妙な殺気に気付いて振り向いた。
 レヴィンが赤く不気味な瞳を女性の後ろ姿に向けている。
「もう夜なのにね、どうしたのかな、こんなところで」
「………………」
 ラヴェルの問いにやはりレヴィンは答えなかった。
 無言で女性の後ろ姿に視線を注いでいる。
 その様子にラヴェルは背中に何か冷たいものが走るのを感じた。
 レヴィンの赤い瞳……時折その視線は何か得体のしれない魔力を放つように感じられる。
 だからといって何かが起こるわけではないが、この時もラヴェルはそのレヴィンの視線に、見た者を凍らせる、魔力めいたものを感じ取っていた。
「ちょっとぉ、アルト、あなた様子を見てきなさいよ」
「……何でオレなんだよ」
 この状態を何とか打開したいのだが、それにはまず川辺の女性と接触しなければならなそうだ。
 しかし、何とも不気味な辺りの雰囲気に自らその役を買って出る者はいない。
「よし、ラヴェル、お前が行け。オレ様はここで待っててやるからさ」
「えっ!? 僕が?」
 アルトとルキータが視線でけしかける。レヴィンはずっと女性の背を見続けている。
 仕方ない。ラヴェルはそろそろとその女性に近付いていった。
「もしもし……?」
 女性の肩がびくりと震えた。
「あの……?」
 ラヴェルが女性の顔を覗き込もうと腰をかがめた瞬間、いつになく厳しい口調のレヴィンの声が耳を突き刺した。悲鳴に近い。
「ラヴェル、退け!!」
 レヴィンの台詞が終わるか終わらないかのうちに、その女性が振り向いた。

 ――――――!!


 どのくらいの時が経ったのだろう。
 ラヴェルは自分の体が温かいのを確かめると、気が抜けたようにへなへなと地面に座り込んだ。
 青ざめたアルトとルキータが駆け寄ってくる。
「大丈夫?」
「う、うん……」
「な……何なんだ、今のは」
 ラヴェルは首をぶるぶる振ると、気を取り直して女性の方を振り返った。
「……いない!?」
 確かに先程までいたはずだ。ラヴェルは自分の記憶を確かめた。
「確かにそこに座ってたよね……女の人。近づいたら手を止めて……何だろう、何かを洗ってたのかな……布? うん、川で洗濯してたみたいだった。暗くてよく分からなかったけど、青い布だったような……で、話し掛けたら……」
 その先を考えた時、ラヴェルの背中に冷たいものが噴き出した。
 何とも言い表しようのない……あえて例えるなら超初心者のフィドルの音と、食器をフォークで引っかいたような音を掛け合わせたような耳に残る声。
 聞いた者の魂そのものを凍て付かせ、引き裂くような叫び声。
「耳に残ってる……」
 ラヴェルは耳に手をあて、忘れるように首を振った。
 やっとの思いで立ち上がると、女性がいたはずの川辺に近づき、確かめるためにそこへかがみこんでみた。
「え? これは……?」
 女性がいた川辺、その水面に青い布がゆらゆらと揺れていた。
 恐る恐る手を伸ばしてみるとそれはごわごわした感触だった。
 麻か何かで織られた丈夫な服。
 それは……。
「……!?」
 ふ、とそれが掻き消えた。
「なっ……」
 手のひらを確かめる。確かに感触はあったのだが……手には何も持っていない。
「………………。」
 沈黙が辺りを包む。
 岩肌ばかりの周辺に風と水の音だけが響き渡る。
 ラヴェルはそっと立ち上がった。何かが引っかかる。
 どこかで今のような話を聞いた事があったような……。
 風に乗り、レヴィンのぽつんと呟いた声がラヴェルの耳に届いた。
「……バンシーだな」
「………………!」
 そうだ、真夏恒例の怖い話。
 特にこのケルティア辺りではよく知られた話で、内容は確か……。
 背筋を氷のようなものが走った。
 バンシー。
 ベアン・シーともいうそれは夜になると川辺で泣きながらある物を洗濯するという。それはある一定条件におかれた人間の服で……。
 ぎぎぎ……と、立て付けの悪い扉のようにラヴェルは振り向いた。
「あ、あのさ……」
 口の中が乾いている。視線の先には……相手の方から先に言葉が発せられた。
「……洗われたな」
「………………」
 この四人の中で、青い服をまとっているのは一人しかいない。



「ちっ、寝不足だぜ……」
「二日ほどろくに寝てないもんね……」
 目の下にクマを作ったアルトの横で、ラヴェルも目をこすっている。
 縁起でもない洗濯女を見てから全員が寝不足である。
 目指す洞窟は更に南西にあり、一行はマンスターからミーズ地方へと抜けた。
 荒地の開拓村の宿を借りて一休みすると、取りあえず路銀稼ぎと持ち物の補充をかねて大通りへと繰り出してみた。
 埃っぽい家並みの間をやせ細った馬や羊が徘徊している。
 広場の井戸の辺りに腰を据えると、ラヴェルは竪琴に手を触れた。
 お愛想にルキータが腕や足を伸ばすが、寝不足で体調不良なのか、今ひとつ踊りに乗り気ではない。
 まったく、半人前の詩人にどうやって四人分の路銀を稼げというのだろうか。
 もう一人の詩人も働く気が全くしないようで、今頃は宿のベッドでぼんやりと天井を見ているはずだ。
「あきらめて帰ろうか」
「そうしましょ」
「オレはもう少しぶらぶらしてくる」
 アルトは西のほうへ歩き去っていった。
 残りの二人は井戸の縁から腰を上げると宿に向かって歩きだした。
 その広場から宿への通りへ入り込む辺りで、二人はレヴィンとすれ違った。
「あれ、どこへ行くんだろう?」
 確か宿で休んでいたはずだが、青い影は竪琴も持たずに家並みの影へ消えていった。
 町の散策にでも出たのだろうが、ラヴェルには何か気にかかる。
 正面からすれ違ったのに、相手は気が付かなかったようなのだ。
 ぼんやりしていたようには見えない。かと言って無視された様子もないが、気になって振り返った時にはすでにその姿はなかった。
「今のレヴィン、変じゃなかった?」
「そう? 別に普通じゃないの? 元々私たちに関心薄いみたいだし」
「そうかなぁ」
 そんな会話をしつつラヴェルは宿の扉を開けた。
 一階の食堂は土埃にまみれた男達でごった返しているが、内部はその見た目以上に荒くれた雰囲気に包まれていた。
「何の騒ぎ?」
 顔をしかめてラヴェルは中を見回した。
「おう、詩人さん、ちょいと外へ出てたほうがよさそうだぜ?」
「何が起きてるんですか?」
 入り口そばのテーブルで食事にしていた男がラヴェルに忠告をよこした。
「向こうの逆毛のオッサン見えるかい? あいつさ、ここらではちょっと有名な荒くれでよ、 どうやら一戦始まりそうだぜ」
「逆毛のおじさん??」
「あいつだ、あいつ」
 その男の指差す方には、確かに逆毛の男がいた。
 いかつい体格、硬そうな筋肉。
 そしてその頭には、砂色でぼさぼさの逆毛。
「……あれってもしかして……」
 ここはミーズ地方。
 コノート地方の北に位置する地方で、コノートを支配している赤枝戦士団の影響下にある地方だ。
 コノートであれば、誰もが一目でその男が誰だかわかるだろう。
 しかしミーズでは影響下とはいえ直接の支配下ではない。
 もちろん名前くらいは知っているだろうが、一目見ただけで彼とわかる人間はいないのだろう。
「うわ、やっぱりホリンだよあれ……」
 ラヴェルはコソコソと柱の陰に隠れた。
 間違いなく、向こうで殺気立っているのは猛犬のホリンだ。
 そのダミ声が嫌でも耳に飛び込んでくる。
「おう、ここであったが百年目だ、今度こそ叩きのめしてやるぜ!」
「懲りない奴だな。俺に喧嘩を売るつもりか?」

 ………………。

 もう一つの聞きおぼえのある声に、ラヴェルは柱の影から首を出してその方向を盗み見た。
 そこにはいつの間に帰ってきたのか、レヴィンの青い影。
「まぁいい。売られた喧嘩は買うことにしている」
「おうよ! やってやるぜ!!」
 ラヴェルはため息を着くと、何が飛んで来てもいいように頭をかばい、床にしゃがみこんだ。すぐ脇ではルキータもテーブルの下に潜り込んでいる。
 ホリンは巨大な剣をテーブルの上に放り出すとぷっと手のひらにつばをつけ、まるで見せ付けるように拳を握って突き出した。
「よ〜し、男は素手で勝負だ!」
「おや、剣は使わなくていいのか?」
 ホリンの足元の床がみしみしと悲鳴を上げている。
 レヴィンも喧嘩慣れしているようで、すっと腰を落とすと身構えた。ホリンとは逆に足音すらしない。
「けっ! お前なんざ倒すのは拳で十分だ!」
「ほう、俺はお前など指一本触れずに倒せるがな」
 レヴィンの挑発に、ホリンは顔を真っ赤にすると勢い良く指を立てた。
「ンだとぉ!? だったらやってみやが……」
「フェアアイゼン」

 ピキイッ!

 室内の温度が一気に下がった。
 白いため息が幾つも漏れる。
「た、確かに指一本触れてないけど……いいのかなぁ?」
 しんと静まり返った食堂だが、やがて人々は何事もなかったように食事を再開し始めた。
「微妙にアンフェアな気がするんだけど」
「気にするな」
 知らん顔をして近づいてきたレヴィンと合流するとラヴェルもスープを注文して席についた。
「そういえばさっきはどこへ出かけたんだい?」
「何の話だ?」
 いぶかしそうな顔をするとレヴィンはグラスを置いた。
「俺はどこへも出かけていないが」
「え? だってさっきそこですれ違ったよ?」
「そうよ、確かに会ったわよ?」
 呆れたような顔をしてレヴィンはもう一度グラスに口をつけた。
「お前、これだけ一緒にいて人の顔をおぼえられんのか。誰と見間違ったんだ」
「うーん……」
 では先程感じた違和感は、すれ違ったのがレヴィンではなく別人だったからなのだろうか?
 確かにすれ違ったが、言われてみれば相手はあの時こちらに何の反応も示さなかった。
 しかし、あの姿はどう見てもレヴィンであった。
 ラヴェルはしばらく考え込んだが、ふとあることに思い当たった。
「あ、もしかして……。レヴィン、君、弟がいるって言わなかったっけ? さっきの、ひょっとすると……」
「……何?」
 レヴィンは驚いたように黙ったが、しばらくすると首を横に振った。
「それはないだろうよ」
「そう? じゃあ誰だったんだろう」
 一体何を見間違えたのか自分でもわからないが、ラヴェルはその話は忘れることにしてとりあえず空腹を満たそうとスープを口元へ寄せた。
「んにゃ?」
 それが飲み込まれる直前、背後で妙な声がした。
 思わず振り返ればちょうど戻ってきたアルトが目を丸くしている。
「ありゃ? レヴィン、戻ってたのか。早いな〜〜」
 どうやらアルトもそのそっくりさんに出会ったようだ。
「………………」
 レヴィンの表情がかすかに険しくなった。
 腕を組んで何か考え込んでいる。
 やがてレヴィンはラヴェルとアルトに確認した。
「それは本当に俺だったんだな?」
「だってどう見てもレヴィンだったよ?」
「こんな怪しい外見の奴が他にいるかよ」
 その答えにレヴィンはしばらく黙っていたが、やがてふっと視線を窓の外に向けた。
「……そうか、俺がもう一人な……」
「もう一人……?」
 ラヴェルが怪訝そうにその言葉を反芻していると、うつむき加減に横を向いたレヴィンのつぶやきが微かに聞こえた。
「チッ……あれといい、今度はヤツのお出ましか……これはいよいよ……」
「レヴィン……?」
 ますます怪訝そうに顔を覗き込むラヴェルに気付くと、レヴィンは気を取り直したように向き直った。
「いや、何でもない。それよりこの後はどうするんだ、一晩泊まるのか、それともこのまま出発するのか」
「んーと……」
 ラヴェルは口をもぐもぐさせながらアルトやルキータと視線で会話した。
「うん、確かこの先、洞窟まではもう町はないんだよね? どっちにしろ野宿になるんだったら、ちょっと遅いけど出発しちゃおうか」
 食事を終えると四人はいつものごとく宿から旅立っていったが、食堂には未だにホリンの氷の像がぼたぼたと水をたらしながら仁王立ちになっていた。



 開拓村を出た一行は林を抜け、日が赤く沈み掛ける頃に川沿いの湿地を過ぎると、古い街道沿いに一軒家を見つけた。
 初老の男性が壁際の薪の山から何本か引き抜いている。
 野宿を覚悟していたのだが、ひょっとしたら夜露をしのげるかもしれない。
「この家の人かな。一晩泊めてもらえないかな。頼んでみようか?」
 ラヴェルが近づいて行くと男性も気付いたようで、薪を抱えたまま振り向いた。
「ん? こんな寂れたところを通るのかい? 物好きな旅人さんだね」
「こんばんは。突然で済みませんけど、一晩、宿を貸してもらえませんか」
 男性は一通りラヴェルの身なりを確認すると竪琴に目をとめ、表情をかすかにほころばせた。
 ケルティアは詩人や語り部を大切にする。
 手ぬぐいで汗を拭き、男性は快くうなずいた。
「ああいいよ。昔はここも街道沿いだったんでよくそういう人が来たもんだが、最近はすっかり寂れちまってね。中は散らかってるが、それでもいいなら泊まっていくといい。雨露くらいはしのげるからね」
 杉の木材でできたその家は、中へ入ると意外と広かった。
 日が完全に沈んだ頃から雨が降り始め、窓の外には遠く霧の中に川に掛かる粗末な橋の黒いシルエットが浮かんでいる。
「野宿をしていたら今ごろ濡れている所でした。ありがとうございます」
「なあに、気にすることはない。昔はよく旅の人が泊まっていったもんさ。あんたみたいな詩人さんや修行中の騎士とかね」
 ラヴェルは一晩の宿の礼に一曲歌うことにした。合わせてルキータが踊る。アルトはすでに夢の中、レヴィンは靴を磨いている。
 歌った後でラヴェルはこの先の洞窟のことを尋ねてみた。
「財宝があるっていう洞窟のことを何かご存じないですか?」
「何だ、あそこへ行くのかい。確かにそういう話は聞いたことがあるがね、期待するほどのものかどうかは分からないな」
 男性が火箸で暖炉の薪を調節する。パチパチという音と、火が赤く照らす室内の様子が何となく懐かしい温かさを思い出させる。
 外は雨。
 レヴィンの手が止まった。
 雨の中、遠くでピシャピシャと足音がする。
 やがてそれはとんとんと橋を渡る音を立て、川のこちらへやって来る。
「……馬?」
 ラヴェルは暗い窓の方に視線を向けた。
 何も見えない。
 旅の騎士だろうか。男性も手を止めた。ぽつりという。
「こういう雨の日はね、馬の足音も不気味に聞こえるもんだ」
 ラヴェルは始めのうちは気に止めなかったが、やはり気になった。
 この家の前でその足音が止まったからだ。
 コンコン、とノックする。
「はいはい、今開けますよ」
 男性が戸を開けようと手を掛けた時、レヴィンがとめた。
「……親父、開けない方がいい」
「え? でも……」
 レヴィンが立った。
「巻き込んじまったようだな……ラヴェル、親父と奥へ引っ込んでいろ。ルキータはアルトを叩き起こしたら二人で隠れろ」
「え??」
 レヴィンは男性をそっとどかすと扉の前に立った。
 再びノックの音。
 ラヴェルは脇の窓の外を覗こうと思ったが、それすらもレヴィンに視線で静止された。
 自分以外が全員隠れたのを確かめると、レヴィンは扉に手をかけた。

 ――そこに、それは立っていた。

 ラヴェルは直感でまずいものを見てしまったと思った。
 ルキータとアルトは布団をかぶっている。
 できればラヴェルもそうしたいのだが、体が硬直してしまって動けない。
 戸口に立っていたのは黒い影だった。
 淡く青く光る何かがそれを包むように漂っている。
 しゃり、と鎧が音をたてた。
 黒く濡れる鎧、腰には大きな剣。
 レヴィンと向かい合って立つその騎士の後ろには黒い馬が控え、その騎士の手には……おぞましい容貌の首が下げられている。
「!!!」
 ラヴェルの手は無意識に腰のレイピアの辺りを漂ったが、レイピアは鞘から抜けなかった。
 手が震えている。
 おぞましい影と向き合うレヴィン本人が一番落ち着いているようだった。
「レ……レヴィン、そいつは……」
「来るな。こいつは俺がやる」
 レヴィンは音もなく身構えると一歩後ろに飛び退いた。目の前の黒い影を見据えて何かつぶやく。
 同時に相手の手がゆっくりと上がり、その指先はまごうことなくレヴィンを指差した。
 ラヴェルにはその黒い影の正体がよくわかった。
 見るのは始めてであるが……伝わる話はあまりにも有名すぎた。
 各地の伝説に現れる騎士。
 できる限り出会いたくなかった。
 死の妖精騎士、首なしの馬に乗り、予言を携えてやってくる、忌むべき存在。
 黒き鎧、死の使い……デュラハン。
 それがレヴィンを指差した手が下がりきらないうちに、レヴィンとの間で激しい魔力の応酬が始まった。
 黒い鎧を覆う青い光は冷たく凍る陰気な炎となり、レヴィンに襲いかかる。
 逆にレヴィンからも白紫の雷がデュラハンに向けて叩きつけられる。
 が、どちらも効果がない。
 青白い燐光と黒い瘴気の炎、引き裂き刺し貫く稲妻と凍える冷気とがめまぐるしく交差し、激しい光と音を撒き散らす。
 魔法では勝負がつかないと悟ったのか、黒い騎士は剣を抜いた。その刃に青白い炎がまとわりつく。
 その巨大な刃が振り下ろされぬうち、レヴィンは強力な何かの魔法を騎士に叩き付け、外の道まで敵を吹き飛ばした。
 それを追ってレヴィンは飛び出し、家の中には半分失神しかけているアルトや、死んだフリをするルキータが取り残されている。
「詩人さん……あれは、良くないよ」
「……はい」
 顔面を蒼白にした主人の言葉にラヴェルも意を決すると、マントを羽織り、戸口まで進んだ。
 レイピアに手を掛ける。
 その耳に、不思議な言葉が響いてきた。



 明けと宵とを彷徨いし……流れゆく全ての魂魄よ……

 戸口でラヴェルは立ち止まった。立ち止まってしまった。
「……我が内に秘められしもの、目覚むれば淡く揺らめく炎となりて、共に永久の時を巡らん……」
 目の前に立つ後ろ姿のレヴィンを、とてつもない力が包み込んでいる。
「全ての魂の源よ……来たれ、今ここに!」
「!!」
 レヴィンを包んでいた力が爆発した。
 眩く輝くそれは情け容赦なく騎士にふりそそぐ。
 余りの眩しさと圧迫感に思わず目を閉じたラヴェルが恐る恐る目を開けた時には、そこにはただ、何ごともなかったようにレヴィンが立っていた。
「なっ……」
 思わずラヴェルは絶句した。
 砂のように崩れ、風に消えていくデュラハン。
 伝説の化け物が、こんな一瞬で塵と消えたのである。
 消えゆくそれを、レヴィンは赤く冷たい瞳で見届ける。
 風にレヴィンの細い前髪が揺れ、マントがはた、と音を上げた。
 恐らく彼の魔力に反応してだろう、彼の胸元に下がる水晶のかけらのペンダントが淡く輝きを放ちながら、まるで宙に浮かぶように揺れている。
「ふ……終わったな」
 あれだけの魔法を使っておきながら、息一つ乱れていない。
 彼に流れる天空人の血のなす技なのか。
 並大抵の実力ではない。
「レヴィン、今のは……」
「うん?」
 やっとのことでラヴェルは声を絞り出した。
 努めて平静を装う。
「今の騎士のことなんだけど」
「ああ、死霊騎士か……お前達は妖精騎士と呼んでいるそうだな」
 なるほど、妖精よりも死霊という言葉の方が似合っているだろう。
 雨が止み、霧が晴れた。
 雲の切れ間から漆黒の夜空が姿を表し、不気味な赤い三日月の光が薄く差し込む。
 その光はレヴィンの姿を逆光の中に浮かび上がらせた。
 ラヴェルにはそのシルエットが神秘的にも、逆にとてつもなく不気味にも思えた。
「デュラハン……初めて見たけど、見たくなかったな」
「当たり前だ、あれに出会いたいと思う奴などいるものか」
 ラヴェルとレヴィンの視線が家の中に注がれる。
 魔族やドラゴンなどを見てみたい、などと言っていたルキータは……のびている。アルトも完全に失神しているようだ。
「もしもーし」
 ラヴェルは室内に戻るとアルトの頬を叩いてみた。
「駄目だ、完全に気を失ってる」
「ふむ……どれ」

 ごすっ……

「……やり過ぎじゃない?」
「確かめただけなんだが」
 鈍い音の後には……相変わらずアルトが昏倒し続けている。
 頭の上になにやら巨大な腫れ物が出来ているようだが、とりあえず見なかったことにしておこう。
 やがて二人はテーブルに向かい合って座った。
 二人の後ろでは薪が心細そうにはぜる音。
 主人は無言で奥に消えていった。
 静寂。
 ずっと黙っているのも何となく気まずい。だがどうすることもできなく、ただ時が過ぎていく。
 静寂はやがてアルトとルキータの寝息の音に取って代わられたが、相変わらず起きている二人は無言のままだ。
 仕方なく、ラヴェルは思い切って聞いてみた。
「あのさ……さっきのデュラハン、ミドガルドじゃ有名な話だけど……レヴィンも知ってるんでしょ? あんまりいい話じゃないけど」
「上の世界にもいるからな。どこから来るのかはわからん」
 そう答えるとレヴィンは目を閉じ、やがて何かつぶやきだした。
「――黒き者、冷たき者、死の使い、忌むべき存在。首なしの騎士、デュラハン――」
 そこで一度区切ると、レヴィンは目を開けた。
「暗い夜になると首なき馬にまたがり、予言を持ってやって来る――そう聞いている。まさか会うとは思わなかったがな」
「予言……」
 蝋燭の炎に照らされ、二人の影が不気味に揺らめいた。
「そう、予言を持ってやって来る。それが最初に会う時だ。二度目に会う時は予言が現実となる時……死ぬ時だ」
「………………」
「それを避けるにはその二回のうちのいずれかに倒すこと。取りあえず倒したがな」
「レヴィンは強いな」
 ラヴェルは揺れるろうそくから視線を上げた。
「やっぱり、天空から来たから? ほら、すごく強力な魔法……禁呪、前にも使ったでしょ、いつかの洞窟の、神官を一発で倒したのとか」
 卓上のロウソクの芯がジジという音を立てた。
「あれは禁呪ではない……そうか、あの時は後ろにいたから俺が何をしたかに気付かなかったか。まぁ知らんほうがいいだろうが……第一あの方法は死の使いであるデュラハンには効かんよ」
「え? 禁呪じゃなかったの?」
 全く知らない魔法を見せられ、ラヴェルは禁呪だとばかり思い込んでいたが、どうやら違うらしい。
「じゃあ一体何をしたんだい?」
「なあに……ちょっと睨んでやっただけさ」
 レヴィンの答えは……漠然としすぎていた。
つづく

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