がんばれ吟遊詩人! 〜ラヴェル君の場合2〜
第10話:ティル・ナ・ノグ(後編)
「さ、道が開いたぜ」
何事もなかったかのようにファーガスは歩き始めた。
試しにラヴェルが腕を出せば見えない壁は確かになくなっていた。
山道を毒々しいまでに赤い夕日が染め上げている。
やがて目の前を険しい崖が遮った。
「登るぞ……落ちても恨みっこ無しだ」
張り出した岩に手を掛け、絡む木の根に足を掛け、一段一段、岩の層を登っていく。
「ひぁっ!?」
腕力のないラヴェルは何度も落ちかけた。
「気をつけろ」
そのたびにホリンに掴み上げられ、岩肌にしがみつく。
手のひらや指先を痛め、それでも何とか登り、最後は三人に引きずり上げられて崖の上に足をつける。
彼方の水平線に日が揺らぎながら沈んでいく。
「また夜が来る……」
空が彩度を落とし、銀色に輝くとやがて薄く闇が覆い始める。
崖の上には一本の道が続いていた。
さらさらと草が揺れる音が鳴り続けている。
浅い森と狭い谷を抜け、緩やかに坂を上れば、暗闇の中、遠くの地面がぼんやりと光っているのが見えた。
「ふう……」
疲労感に似たものが全身を包み、ラヴェルは幾度となく立ち止まっては深く溜息をついた。
妖精界に入って何度か夜を過ごしているが、この夜はなぜか胸が高鳴った。
やたらと早く打つ鼓動が目眩を誘発し、ラヴェルはよろめいて地面に伏せた。
「……敏感な奴だな。ま、仕方ねぇか」
溜息をつくとファーガスは水袋の口を開けた。
それを受け取るとラヴェルは少しずつ口に含んだ。
「敏感て……何にも感じてないけど……?」
休み休み尋ねるラヴェルにファーガスは遠くにぼんやり光るものを見つめながら答えた。
「精霊の息吹さ。意識では感じなくても、それなりの潜在能力があるってことさ。まぁ、もしかしたらお前じゃなくて、誰かの能力かもしれんがな」
「……レヴィン?」
ラヴェルは魔法の腕は三流以下だが、精霊魔法の素質がわずかながらあるとレヴィンに言われたことがある。
自分が生まれたときのことなどラヴェルは覚えていないが、レヴィンに繋がる存在であることを今は理解している。
腰に下げていたクリスタルの欠片のお守りをラヴェルは手に触れてみた。
闇の中に白い微光を弱々しく放っている。
レヴィンが首から下げているものと元々一つであったらしい。
「歩けるか? 月が出ている間に辿り着かないと時期を逃すぜ」
「大丈夫、歩けるよ」
何とか立ち上がるとラヴェルは震える足を踏み出した。
そろりそろりと歩けば、やがて森の上に月が顔を覗かせた。
満月だ。
その光にも似た何かが遠くの地面で光っている。
「ファーガス、あの光っているのは何なの?」
「行けばわかるさ」
地面を覆うぼんやりとした光が徐々に近づいてくる。
風がふっと通り抜けた。
芳醇な、それでいて爽やかさと冷たさを伴った香りが強く漂う。
やがて四人は光が地面を覆う場所へ辿り着いた。
「これは……」
その風景を目の当たりにし、ラヴェルは沈黙して立ちすくんだ。
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純白の花が、月のような光を発して風に揺れている。
妖精の白い花、光を零して輝く花が一面に咲いていた。
「これが幻想の花さ。ほれ、摘んで来い」
「う、うん」
酔ったような足取りでラヴェルは花の群れに分け入った。
そっと腰を下ろして身をかがめると、一輪の花に手を添える。
「もらっていくからね」
膨らんだ花弁を優しく揺らす花を一輪手折ると、妖精の贈り物への感謝を込め、手折った花の根元に蜂蜜の欠片と金貨を三枚埋める。
これは昔話に伝わる花の代償だ。
「手に入れたな? よし、戻るぜ」
長居は無用、いや、むしろ危険だ。
慎重に崖を降りれば、刺すような朝日が目を焼いた。
霧が光に溶け、幻影が消えれば、目の前には深い森が朝日に輝いている。
「え?」
思わず見上げたラヴェルの目に、ベン・バルベンの山影が映った。
いつの間にか彼らはミドガルド……ケルティアにそびえる魔の山の麓に立っていた。
耳に捕らえきれない何かの音がぼんやり響いた。
山が啼いた声だ。
何かが知覚を刺激し、ラヴェルはぞっと背筋を凍らせた。
目の前に広がる森の奥に、何かの巨大な目が一対輝いた。
「お出ましだぜ」
ゲイ・ボルグを掴み、ホリンは油断なく構えた。
その横に並んでフィンも剣を抜いた。
「ファーガスさんはラヴェルさんと一緒に行ってあげてください」
「ほれ、早くチンピラのところへ行ってやりな」
何かの蹄の音が重く響く。
何が出てくるのか、全員が悟っていた。
ベン・バルベンの森には英雄ですら太刀打ちできない化け物が住むと伝説にある。
ケルティアの人間でその話を知らぬものはない。
ファーガスがラヴェルの両肩を叩いた。
「……この二人なら大丈夫だろう。戻るぜ、ラヴェル」
「う、うん」
二、三歩後ずさりし、ラヴェルはホリンとフィンの背に祈ると身を翻して駆け出した。
背後で凄まじい鼻息とこの世のものとは思えぬ咆哮が炸裂する。
「おいフィン、行くぜ!」
「はい!」
大地を揺るがす巨体は、ベン・バルベンの魔の猪だ。
「うらあああああああっ!」
伝説の化け物に負けじとホリンの雄叫びが響いた。
空気を煮沸するような音を立て、ゲイ・ボルグが闘気を黒い矢尻の嵐に変えて吐き出す。 伝説に匹敵する死闘が、走り出したラヴェルの背後で始まった。
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「と、と、とととととと!?」
岩や木の根が露出する獣道を、ラヴェルはひたすら下った。
たまにバランスを崩しかけるが、何とか持ち直しては駆け続ける。
その背後、山奥から時折地鳴りと不気味な獣の咆哮が響き渡ってくる。
この山の主、魔の猪。
ケルティアの伝説において幾人もの英雄をあの世に送っている魔獣だ。
ホリンとフィンが食い止めている間にラヴェルは何としてでも薬草を持って無事に逃げ切らなければならない。
これを持ち帰らなければレヴィンはずっと眠ったままだろう。
朝日が差し込む森の中、掛ける足はますます速くなる。
「と、と、と、とととととわあわあわあわ!?」
足がもつれ、木の根に引っ掛けると顔から岩の露出する斜面に転倒、勢いでラヴェルはそのままゴロゴロと転げ落ちていく。
「そんなことだろうと思ったぜ」
ファーガスが溜息をつくのとほぼ同時、森の先でラヴェルが悲鳴と共に姿を消した。
どうやら崖下に転落したらしい。
中途半端な振動と潰れるような音が木立の向こうから響き渡る。
「むきゅう……」
花だけはしっかり握ったまま、ラヴェルは呻き声を上げた。
崖は土手程度の低さであったが、落ちれば痛いに決まっている。
何かがラヴェルの頬を舐めた。
嫌な予感がして目を半分あければ、白いヒゲが見えた。
「あらあら、だめですわよ」
小さな鐘を涼しげに鳴らし、牛がラヴェルから離れていく。
「うへ?」
ようやく身を起こし、ラヴェルはその巨体に言葉を失った。
それは確かに牛だった。
だが、尻尾はどう見ても水棲生物だ。
ずもずもと鼻を鳴らし、飼い主らしき人間の下へ帰っていく。
「え?」
ラヴェルが辺りを見回せば、落ちた辺りはくぼ地で、ちょっとした草原になっていた。
その中に小川が流れ、水に濡れた牛が朝日の中でのんびりと草を食んでいる。
水棲牛を撫でていた若い女性がのんびりとした笑顔をラヴェルに向けた。
「まぁ、ラヴェル様じゃありませんの?」
「え?」
ラヴェルが慌てて女性を見れば、それは見覚えのある顔だった。
「あれ? ディドルー? 何でここに」
そこには、しばらく旅を共にした精霊使いディドルーがいた。
どうやら国に戻っていたらしい。
「何でって言われましても……ここにはよく来ますし」
ディドルーの足元には布が広げられ、そこには新鮮なハーブの芽が幾種類も小分けにされていた。
どうやら摘んできた薬草を選別していたようだ。
「今朝は賑やかですわね」
森の奥で何が起きてるのか気付いていないらしく、ディドルーは山が啼く方角を穏やかに目尻の下がった瞳で見やった。
「うん、ちょっとね」
ラヴェルが見上げれば落ちてきた崖の上に、追いついたファーガスが立っている。
「あ、そうですわ」
何か思いついたようにディドルーは背後の小屋に入っていった。
がさごそという音がしていたが、しばらくするとディドルーはとても嬉しそうな笑顔で戻ってきた。
「これ、ラヴェル様に。とってもお似合いになると思いますの」
ディドルーが持ち出したものにラヴェルは顔が引き攣った。
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それは……深い緑のメノウをあしらった、リボンのカチューシャだった。
「……ディドルー」
さめざめと涙を流しながらラヴェルはディドルーの肩に手を置いた。
「僕、男だって知ってるよね」
「えっ」
ディドルーの上げた驚くような声にラヴェルは考え込んだ。
「驚くってことは……女だと思ってた?」
「え、だって」
ディドルーはリボンを手にしたまま固まっている。
「だってレヴィン様がラヴェル様は本当は女の子さんだって……」
「……レヴィン〜〜〜〜〜」
崖の上で誰かが笑い転げているのを無視し、ラヴェルは自分が手に握ってきた物を睨み付けた。
「この花、ここに捨てて行ってもいいよね、きっと」
「まぁ、その花は」
ラヴェルが握っていた花にようやく気付き、ディドルーは驚いたように口を開いた。
「ラヴェル様、その花はどうなさいましたの? 手に入れるのは大変でしょうに」
「うん、まぁ、その、ね」
何と答えようかとラヴェルは言いよどんだが、ディドルーは気に留めた様子はなかった。
「見せて頂いてよろしいかしら?」
「うん」
ラヴェルが花を差し出すとディドルーは花先を指に乗せ、花びらの開き具合や付け根、細い葉などを丁寧に観察した。
やがてほっこりとした笑みを浮かべる。
「とても良い状態の花ですわね。きっと良いお薬になりますわ。ちょっとお待ちくださいな」
ディドルーは再び背後の古ぼけた小屋に姿を消した。
やがて古びた硝子瓶や壺、乳鉢などを手にして戻ってくる。
「お薬を作りますわね。お国に帰る頃には丁度良い位に熟成してると思いますの」
偶然とはいえ、ここでディドルーに出合ったのは運がよかっただろう。
精霊使いであり、なおかつハーブに詳しいディドルーならば、幻想の花を使った薬も作れるに違いない。
よく考えれば、ファーガスとて幻想の花が効くらしいことは知っていても、薬の作り方までは知らないだろう。
幾種類もの見知らぬ草を焚き火で煎じ、その液で蜂蜜を薄め、その中に幻想の花を漬けると硝子ビンに入れてしっかりと栓をする。
「はい、できましたわ」
「ありがとう、助かったよ」
ラヴェルが礼を言うとディドルーは若干頬を赤らめながら嬉しそうにうなずいた。
ラヴェルは試しに乳鉢に残っていた蜂蜜と薬草の液をなめてみた。
「うぐっ…………」
蜂蜜が入っていることがウソのようだ。
顔が皺くちゃになりそうなほどに苦い。
ラヴェルはしばらく頬を引き攣らせていたが、やがて頭を横に振った。
(うん、飲むのはレヴィンだし!)
意識がないのだから味など気にもなるまい。
勝手にそう決め付けるとラヴェルは薬瓶を懐にしまいこんだ。
「ディドルーはよくここに来るの?」
「ええ、この子がここに住んでいるので、時々会いに来ますの」
そういうとディドルーはほっそりした手で水棲牛を撫でた。
「とても良いお乳を出すんですの。少しお持ちになりませんか?」
牛を良く拭くと、ディドルーは手際よくその乳を搾った。
古びた水袋に詰めてもらい、ラヴェルはそれを喜んで受け取った。
昔話によれば水棲牛の乳は質がよく、赤子に飲ませればよく育ち、病人に飲ませればたちまち栄養がついて回復するなど、色々言われている。
旅の疲れにも良く効くことだろう。
「じゃぁ、急いで戻らなきゃだから、もう行くね」
「はい。ごきげんよう」
どこか名残惜しそうにディドルーはラヴェルを見たが、崖の上にファーガスが黙って立っていることに気付くと、一瞬だけ表情を曇らせた。
「戦士の方のようですわね……何かあったのかしら」
ラヴェルはそ知らぬふりをしたが、巻き込まないためにもここは知らぬ顔だ。
何度も礼を言うとラヴェルは崖をよじ登った。
紺色の目を鋭く細めているファーガスの脇に立つと、山奥で一段と大きな咆哮が響いた。
「急いで帰ろう」
「……ああ」
朝日の輝く森の中に、ファーガスのマントが色も鮮やかに翻る。
それを追うとラヴェルは再び森の斜面を駆け下り始めた。
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猪という生き物はケルティアでは特に恐れられているらしい。
その中で最たるのがこのバルベン山の猪だ。
「ラヴェル!」
森の中を駆けるラヴェルに、背後から大音声が浴びせられた。
立ち止まって振り返れば、木立の切れた段差の上にホリンとフィンの姿が見える。
「まだこんなところにいたのか、来るぜ」
ホリンは手にゲイ・ボルグを握ったままだ。
フィンの肩も荒く上下に振れたままで、二人が今の今まで激しく戦っていたことはすぐに見て取れた。
「来るか?」
ファーガスが問うと、フィンが荒い息のままうなずいた。
「すみません、やはり一筋縄の相手ではないようで……」
「わかった。こっちへ来な」
ファーガスが踵を返すとホリンは岩から飛び降りた。
森の中を異様な気配が迫ってくる。
「そこから跳べ!」
ファーガスについていけば獣道を外れて茂みを突っ切り、崖の上へ出た。
下は草に覆われて見えないが、音から察するに水が流れているらしい。
「あらよ!」
ホリンが跳ぶのを見届けるとファーガス、そしてフィンも続き、ラヴェルも助走をつけた。
「たぁっ!」
浮遊感に続く落下感にラヴェルは違和感を感じた。
すぐにそれが恐怖に変わる。
「ええええええっ!?」
ちょっとした崖かと思ったが、やたらと落下距離が長い。
しかも落下速度はどんどん速くなる。
木々の枝に引っかかり、巻き込み、持っていた荷物も飛び散らせ、凄まじい悲鳴と共にやがてラヴェルは地面に激突した。
「……大丈夫か?」
人の形に開いた穴を覗き込みながら、ファーガスは少しの間をおいて降って来た幻想の花だけはしっかりとキャッチした。
「う、うう」
泥と共にラヴェルはごそりと地面から身を起こした。
どこか遠くない場所から獣の唸り声が聞こえる。
「ここなら存分に戦えるだろ」
ファーガスの言葉に辺りを見回せば、そこは一面の草原だった。
ベン・バルベンの森の中とは思えない。
「ここって……」
「妖精界さ。昨日通っただろ」
魔の山もティル・ナ・ノグと繋がっているというが、どうやら今落ちた谷も入り口の一つだったらしい。
「今度は落とすなよ」
ガラス瓶をラヴェルに投げ渡すとファーガスは黄金色の剣を抜いた。
ホリンのゲイ・ボルグには闘気が込められ、フィンの隕鉄の剣も青く輝きを帯びる。
一歩、その獣が歩くたびに地響きが鳴り渡る。
暴風のような音は鼻息の音だ。
地面を抉る二本爪、針のような剛毛、太い牙。
禍々しい闇のような気配と荒々しい気を纏って、化け物は姿を現した。
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かなりの傷を負っているものの、その動きに衰えは見て取れない。
泥を飛ばしながら猪が突進する。
「おらぁ!」
戦の火蓋を切ったのはやはりホリンだ。
勇ましい掛け声と共に、込められた闘気が黒い矢尻の嵐となって槍から噴き出していく。
手の中で槍を回転させ、間合いを稼ぐと巨大な体躯めがけて突き込む。
「せやぁっ!」
「……はぁっ!」
ホリンの影から回り込み、フィンも剣を猪に当てに行く。
体躯を上下に揺り動かしながら猪は所構わず体当たりをぶちかまし、地面は激しく抉れ、草花も荒れ放題だ。
「ほらよ!」
その中を黄金色の輝きが一閃する。
猪の蹄とかち合い、火花を散らし、ファーガスは剣を棒切れのように軽々と繰り出していく。
出番などあるはずもなく、しばらく呆然と立ち尽くしていたラヴェルだったが、気を取り直すと竪琴を手に取った。
詩人にて英雄たるコルプレやクレヴィのようにはいかないだろうが、何もしないよりマシだ。
適当に弦を弾くと、腹の底から強く息を吐き出す。
ヒーホー、ヒーロッホ、ホー、ロー、ホー、ロッホ、ホー……
それはケルティア風の掛け声もしくは鼻歌の類で、詩ではない。
だが、戦士達の意気を上げるため、昔から詩人達は良くこの掛け声を贈ったという。
「くっ!」
フィンの刃を猪が噛んだ。
そのまま前脚で若い騎士を突き飛ばすと、地面に叩きつけたところを頭で跳ね飛ばす。
「坊主!」
「だ、大丈夫です!」
ホリンが一瞬だけ視線をフィンに向けたがすぐに猪に向き直った。
一瞬の隙すら命取りになりかねない。
「ブタのクセによ」
苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、ホリンは猪の脇へ回り込んだ。
とにかく脇を狙うのが一番安全だ。
反対側にはファーガスが回りこんでいる。
大丈夫と答えたもののフィンは動かない。
どうやら身体がショックを起こしているようだ。
地面に落ちたままの彼の剣が激しく光っている。
剣戟の音にラヴェルが視線を戻せば、ファーガスの剣は相変わらず黄金色に輝き、血に錆びることを知らないかのようだ。
フィンを介抱しつつ、ラヴェルは戦場に目をやった。
「だぁりゃぁーー!!」
威勢よくホリンが突撃を仕掛けているが、猪の分厚い皮膚や肉を刺し貫くには至っていない。
「クソぅ、そうそうに牡丹鍋にしてやろうってのに」
「食うのか? 硬そうだぜ?」
忌々しげなホリンの反対側でファーガスはいつもどおり涼しい顔をしている。
もしこの場にレヴィンがいたら、この魔の猪を圧倒してくれるだろうか?
不意にこの場にいない相棒を思い出し、ラヴェルは薬瓶を見やった。
液体の中に幻想の花が静かに浸っている。
とにかくこれを無事に持ち帰らなければならない。
「がああああっ!?」
太い雄叫びのような悲鳴に視線を上げれば、ホリンが地面に叩きつけられたところだった。
そのまま踏みつけようとする獣の脚を、大地を転がって何とか避けた。
「ホリン!」
「構うんじゃねぇ!」
半分悲鳴じみたラヴェルの声を打ち消し、降り下ろされた獣脚をホリンは槍の柄で受け止め、両手どころか足まで使って何とか耐えている。
「おい兄ちゃん、何とかなるか!?」
「さぁな」
ホリンはファーガスをじろりと睨んだが、やがて足を極限まで折ると飛び出すようにしてその場を逃れた。
「ま、やってみるさ」
軽く肩をすくめるとファーガスは剣を持つ手に力を込めたようだった。
「天よ」
猪の殺気がファーガスを正面に捕らえる。
剣を振ってそれを引き付けると、ファーガスは刃を空に向けた。
「落ちろ!」
その瞬間、視界はただ白く染まった。
何も見えない中、音とは認識できないほどの轟音と地響き、空気が裂ける振動が嵐のように周囲を覆い尽くす。
それが激しい落雷だとようやく認識した頃には、辺りは黒く焼けただれ、大地も炭のように硬く乾いている。
「ちっ、生焼けか」
ファーガスの舌打ちに我に帰れば、ラヴェルの目に映ったのは、体毛をちりちりに焦がした猪の姿だった。
背中からぶすぶすと煙を上げ、血を垂れ流しているが、猛る気配は相変わらずだ。
「やっぱ、じかにやるしかないか?」
「くそったれ、こうなったらおろして焼肉にしてやる」
「……要はそこかい」
呆れたような溜息をつくとファーガスは猪に向き直った。
猪の赤く濁った瞳が不気味に輝いている。
その光が白く霞んだ。
霧のように辺りが白く包み込まれる。
戦士達が辺りに警戒を払う中、フィンがラヴェルの袖を引いた。
「ラヴェルさん、あれが見えますか?」
フィンの指差す方を見れば、地面に落ちた彼の剣が青く輝いている。
「強い魔力に反応しています。気をつけて」
猪の唸り声が重く響く。
その中に何か別の声が聞こえたような気がした。
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――夢に見る幻よ、憧れを惑わす蜃気楼
霧の中に薄くこだまする声は女性のものだ。
その霧に幻惑されたかのように猪が突然方向を変えた。
あらぬ勢いで突進すると、彼方にかすんで見える大岩に鼻先から突っ込んだ。
小山ほどもある岩が木っ端微塵に砕ける様子に、戦士達は全員が黙り込んだ。
あんな突進を食らったらひとたまりもない。
猪はそのまま見えぬ何かに襲い掛かり、鼻で地面を抉り、草の根を牙で引きちぎり続けている。
「よくわからんが、何かに幻惑されちまったようだな」
黄金色の剣を降ろし、ファーガスがラヴェルに振り向いた。
濃くなった霧の塊が徐々に遠くへ去っていく。
その白い塊を猪が激しく追い立てていく。
何者かによってティルナノグの奥地へいざなわれているらしい。
「今のうちに距離をとったほうがよさそうだな。気にくわねぇが勝てる相手でもなさそうだしよ」
ホリンが槍を担ぐと、ファーガスはうなずいた。
「そうだな。地上へ戻るぜ」
見知らぬ土地を歩いて小川を渡る。
幾つかの流れを越えたところでファーガスが足を止めた。
「ちょいと流れが早いから気をつけろよ」
目の前にあるのは、小川とは言えどそれまでと比べるとかなり広い川だった。
深さはさほどのようだが、確かに流れが速い。
「これさえ越えれば中津国だ」
ブーツを濡らし、それぞれが清い流れに足を踏み入れる。
冷たさが疲れた足に心地よい。
思わずその感触に気を取られたラヴェルは、水草のぬめりに足を滑らせた。
派手に水飛沫を上げ、やがて身体を起こしたラヴェルの懐から小魚がうにょりと落ちて石の上に跳ねている。
全身からしずくを滴り落としながら、ラヴェルは何とか川を渡りきった。
気付けば目の前にはマンスターらしき豊かな緑の大地が広がっている。
「ふう、戻ったかな」
しばらく進めば見たことのある街道へ出た。
安心したように伸びをするラヴェルの背後で、休むようにフィンが腰を下ろした。
何も言わないが相当に身体を痛めているらしい。
「大丈夫? ああ、そうだ、確か傷薬が……」
ラヴェルが懐をまさぐると、常備している傷薬と財布がない。
「う、落としちゃったかな……」
「お前の財布なんてあってもなくても一緒だろ」
ファーガスの独り言にラヴェルはがっくりと肩を落とした。
「あ、これが残ってた。飲むといいよ」
それでも腰の辺りを探り、ラヴェルは古びた水袋を手に取った。
飲めばたちまち元気になるという、水棲牛の乳だ。
「では頂戴します」
深々と礼をするとフィンは受け取り……動きを止めた。
「ええと、これは……」
フィンの手を見てラヴェルは沈黙した。
逆さにしても振っても水袋の中身は出てこない。
散々駆け回って振ったせいか、乳は水袋の中で完全にチーズのように固まっていた。
つづく
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