がんばれ吟遊詩人! 〜ラヴェル君の場合2〜
第11話:生命の大地(前編)
小さな城に昼餉の湯気がいかにもおいしそうな香りを放っている。
一人で食事にしていたのはクレイルだった。
「ラヴェルもどう?」
「結構です」
ご機嫌で誘うクレイルに、ラヴェルは頑として首を縦に振らなかった。
お茶は生きがい、料理は趣味のクレイルが作る食事は確かにおいしい。
だが……それは稀以上の確率で甚大な被害を叩き出す。
「おいしいのに」
「結構ですってば!!」
必死に首を横に振るとラヴェルは別室へ逃げ込んだ。
傷を負ったフィンはホリンに任せ、ラヴェルはファーガスと共にシレジアへ帰って来ていた。
ニンフェンブルグ城はあいかわらず細波に囲まれ、山間の湖にひっそりとたたずんでいる。
「だいぶ落ち着いたみたいだな」
薬が効いたのか、薬液を飲ませてしばらくの間、レヴィンはそれまで上げなかった呻き声を上げるようになっていたが、ここ数日はそれも落ち着いたのか、静かに眠っている。
ファーガスは剣を佩くとマントを羽織った。
旅装に身を固めるとちらっとレヴィンに視線をやり、やがてラヴェルに目を戻した。
「そろそろ俺は帰るぜ」
ティル・ナ・ノグではなくミドガルドに存在するケルティア。
行き来したばかりの土地へ、ファーガスは旅立とうとしている。
「ありがとうございました。何から何まで」
ラヴェルは思いがけず共に長く旅した相手に丁寧に頭を下げた。
苦笑を漏らし、ファーガスは軽く手を上げた。
「気にすんな。じゃ」
赤いマントを揺らし、長身の遍歴騎士は城門をくぐり去っていく。
島へ帰ったら今度はどこを流れていくのだろうか。
遠ざかる後姿を見送り、ラヴェルは湖畔の町を彷徨った。
店を回って幾つかの品を買い、城へ戻れば中庭でクレイルが花壇に水をまいていた。
能天気そうに口笛を響かせる彼の足元には、柔らかな若芽が土から顔を覗かせていた。
「ただいま」
ラヴェルは部屋に戻ると返事をしない相手に声を掛けた。
窓辺に腰掛け、湖面を眺めながら竪琴を弾く。
入り組んだ石材に反射した音はやがて細波の音に吸い込まれて消えていく。
ポン……ポロン……
澄んだ高い音が響いては消える。
歌うでもなく、調べを奏でるでもなく、ラヴェルはただぼんやりと弦を弾いていた。
その音に、がさりと布が擦れる音が混じった。
「…………」
竪琴を弾く手を休め、ラヴェルは何気なく耳をすませ……やがて振り向いた。
ベッドの上にレヴィンが上体を起こしている。
「レヴィン! 目、覚めたんだね」
「……ラヴェルか」
意外としっかりした口調でレヴィンは声を上げた。
ラヴェルはすぐにベッドに駆け寄った。
レヴィンが手で何かを探っている。
その手を取るとラヴェルはレヴィンに薬湯の入ったカップを持たせた。
丸い陶器を確めるようにレヴィンは手の感触を探っている。
どうやら目的のものと違うらしくレヴィンは微かに顔をしかめた。
その様子にラヴェルはぴんと来た。
レヴィンの顔の前で手を振ってみる。
……何の反応もない。
ラヴェルはレヴィンの正面にしゃがみこみ、相棒の顔を覗いた。
「!」
それに気付き、ラヴェルはしばし黙り込んだ。
レヴィンの残された片瞳が赤から薄紫に色を変えていたのだ。
ラヴェルの目と同じ色だ。
その瞳にラヴェルはそっと指を近づけてみたがレヴィンはやはり無反応だった。
「……うん、見えてないね」
「ああ」
鈍い痛みがするらしく、レヴィンは額に手を当てた。
「もう少し休んだら?」
「ああ」
見えなくなった瞳をレヴィンは窓の外に向けた。
「水の匂いがするな」
「ニンフェンブルグだよ」
「そうか」
かなりやつれたように見えるが、それでもレヴィンが再び身を起こしたことはラヴェルにとって嬉しいことだった。
長らく放置されていたリュートの埃を払うと、ラヴェルはその丸い胴体をレヴィンに抱えさせた。
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幾分細くなった指が弦に触れる。
土臭い音を幾つか響かせると、レヴィンは弾くのをやめた。
几帳面なのか、それとも楽人の性か。
手探りで弦の張り具合を確め、やがて調律を始める。
ただ、片方の手は動きが不自然に遅かった。
時折だらりと力なく降りてしまうことすらある。
「どれぐらい寝ていた?」
「三月くらいかな」
「……そうか」
相当な時間を寝過ごしたことにうすうす気付いたらしい。
溜息を一つ吐くと、レヴィンは黙々と調弦を続けた。
力が入らないのか、指先が時折弦から滑ったように外れ、そのたびにレヴィンは僅かに顔をしかめているようだった。
「それにしてもしつこい奴だなクヤンも」
どうやら直前の記憶までは確かなようで、レヴィンはどこか忌々しそうに言葉を吐いた。
それにうなずきながらラヴェルは功労者の名を挙げた。
「ファーガスさんが倒してくれたよ」
「何?」
見えない目をレヴィンは上げた。
「……どうやって?」
その問いにラヴェルは答えをつまらせた。
説明のしようが思い浮かばない。
「うう〜ん……剣を振るったら、すごい雷撃が起きて……あの剣、相当な魔力があるみたいだよ。魔法も無効化できるって言うし」
わかりにくい説明にレヴィンはしばらく考え込んだ。
「雷撃……それだけでクヤンが消えたのか?」
「うん」
ラヴェルがうなずいたのを感じ取るとレヴィンはまたしばらく考えにふけった。
あのクヤンがそれだけで消え果てるはずがない。
やがて自分自身で確認するためのように声を発する。
「あのクヤン、本人の幽霊ではないかもしれんな。誰かが作り出した影か、あるいはクヤンの崩壊した意識の残骸を誰かが操っているか……」
「えっ?」
そんなことが出来る人間がいるだろうか?
首をかしげるラヴェルに、レヴィンは更に難解な仮定を加えた。
「ファーガスが放った雷撃は攻撃用の魔法ではないだろうな。恐らくは妖精の力を使って幻や傀儡を破る破幻術だ。あの剣にその力が封印されているんだろう」
「それって……」
ファーガスの剣は短時間だが魔眼の視力を無効化している。
あれはただのクレイモアではない。
相当な魔力を秘めた剣であることは確かだ。
「それに」
レヴィンが続けて語った言葉にラヴェルは絶句して黙り込んだ。
「妙な奴だとは思っていたが……それだけの剣を使いこなせるとなれば、ただの人間ではないな。恐らく妖精騎士か何かだろう。だとすれば精霊語を解することも納得がいく。元は人間だったんだろうが、誰かにティル・ナ・ノグに捕らえられたままなんだろうよ」
「なっ……」
ファーガスが妖精の異郷で倒した妖精騎士をラヴェルは思い出した。
彼とファーガスとは、同じような境遇にあるのだろうか。
だか少なくとも、ファーガスは自由に動いているように見えた。
妖精の束縛から逃れるには相当な運が必要だと言ったのはファーガス自身だったが、彼にはその幸運があったのだろうか。
もしくは何かと引き換えに自由を得たか。
「……いや、ちょっと待て」
何かを思い出したようにレヴィンは顔を上げた。
「剣で思い出したが……この前襲われたとき、クヤンの剣を見たか?」
「え? あ、ああ、確か……」
国境の森で襲われた時、クヤンは腰に剣を下げていたようだった。
「普通の剣だったね。前に見たことのある、エインヘリヤルの炎の剣ではなかったよ」
「馬鹿、そういう意味じゃない」
舌打ちを漏らすとレヴィンは薄紫に色を変えた瞳に鋭い光を宿した。
「あれは王者の剣、聖剣エクスカリバーだった。元々奴が持っていた剣だ」
その言葉にラヴェルは違和感を覚えた。
「あれ? でもエクスカリバーは確か今、アルスターの城にあるはずだよ?」
新しいケルティア王をどうするか、円卓会議はかなりもめた。
その際、評決に使われたのがそのエクスカリバーだった。
その時のままならその剣はアルスター城で岩に突き刺さっているはずだ。
「……妙だな」
それともその後、クヤンはアルスターに赴いていたのだろうか?
だが、ファーガスと共に立ち寄った際、城の主はニニアだった。
クヤンが帰っていれば大騒ぎになっていたはずだ。
考えても答えは出ない。
思考に疲れ、やがて二人は黙った。
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双葉だった芽から幾枚かの本葉が伸びてきた。
クレイルも去り、妖精城にはラヴェルとレヴィンだけが残っている。
目を覚ませばその後の回復は早かった。
それでもやはり傷が傷だけに、痺れの残る身体を半分引きずるようにしてレヴィンは城の中をリハビリ代わりに歩いている。
「杖か何か必要かな?」
「いや、邪魔だからいい」
手探りで椅子を探し当て、レヴィンは腰掛けた。
城の間取りは頭に入ったようで歩くのに不自由はしないようだが、家具の配置や時折場所を変える椅子までは把握しきれないようだ。
「この後どうする?」
「そうだな……いつまでもここに篭っていても仕方あるまい」
再び旅立つことを決めると、一晩の後、彼らは城を後にした。
ゆっくりゆっくり、だが確かに足を踏みしめて歩いていく。
街道を西に進み、王都の少し前の街で二人は宿を取った。
食事を終え、部屋に戻るとレヴィンはベッドの上でリュートを抱えた。
弦数の多いそれを手探りで調律する。
「そういえば、いつのまにリュートに? 前は竪琴だったのに」
初めてレヴィンに会ったとき、彼の楽器は古いスタイルの五弦琴だった。
天空で激しい戦いを制し、地上に戻ってくると、いつの間にかレヴィンはリュートを手にしていた。
「ちょっとな……こいつの処分方法を考えていてな」
「処分?」
丸みを帯びた胴体をレヴィンは乾いた手でそっと撫でた。
「ありがたくない貰い物でな……呪いみたいなもんさ」
そう呟き……レヴィンは何かに気付いたように手を止めた。
「待てよ……あの剣も……?」
「剣?」
ラヴェルが問い返すとレヴィンは首を横に振った。
「いや、なんでもない」
ただ黙々と弦を締め、あるいは緩め、音の連なりを仕上げていく。
ラヴェルはしばらくそれを見つめていたが、やがて窓を閉め、毛布を頭からかぶった。
シレジアで最も有名な湖はもちろんニンフェンブルグだが、それ以外にも大小数多の美しい湖が知られている。
翌朝、町を出ると二人は薄く日の射す野道を西に向かった。
「外の方が歩きやすそうだね」
「ああ。風や匂い、精霊の気配でわかるからな」
締め切った室内だと手探りで歩くレヴィンだが、外へ出るとまるで目が見えているように歩き始める。
足元も、周囲の様子もほとんど理解しているようだ。
「レヴィン、今こんなことを聞くのもどうかと思うけど、レヴィンにはミドガルドってどうに見えてたの?」
この相棒は生まれも育ちも天空だ。
地上の人間の手に届かぬ世界から来た彼に、この地上世界はどう見えていたのだろうか。
「そうだな……光、命……緑に覆われた大地、果てしない海。天空にはないものばかりあると思ったな。風にそよぐ草原、色鮮やかな花、深く、大量の命を抱いている樹海、火を吹く山、そして……人間や動物達」
「…………」
ラヴェルは足元を見ながら無言で歩いた。
地上に住む人間は空を見上げては夢想し、高みと眩い光に憧れている。
逆に天空に住むものは地上を見下ろしては色々と焦がれているのだろうか。
「生きている世界……第一印象がそれだったな」
小鳥のさえずる声にレヴィンは見えぬ目を見上げた。
「天空は滅びた世界だ。確かに光を浴びているが、それすら虚しい。上都に至っちゃ、完全に死んだ世界さ」
緩やかな風が頬を撫でては去っていく。
いつもより日数をかけて丘陵地帯を抜け、二人はやがて王都ブレスラウへ辿り着いた。
石畳の急な坂を上れば、漆喰と木組みの美しい城が建っている。
「あら、こんにちは!」
城門の前にはふわふわのブラウスを着た小さな姫マリアがいた。
どうやら帝国から帰って来ていたらしい。
「詳しくは知らないけど大変だったんですってね。にいさまから聞いてるわよ」
マリアはレヴィンの手を取ると引っ張った。
「にーさまー!」
国王の執務室へ遠慮会釈なく踏み込むと、書類に突っ伏して昼寝中のクレイルを文字通り叩き起こす。
よく熟れたカボチャを叩くような音と共に目を覚ますとクレイルはむっくりと起き上がった。
「あ、ああマリア、おはよう」
「……もうお昼過ぎだけど?」
冷たく告げるとマリアはくるくると良く動いた。
手早く湯を沸かすと自慢のハーブティーを淹れる。
「はい、どうぞ!」
たんこぶをこしらえたクレイルと向かい合い、ラヴェルは温かなお茶をゆっくりと口に含んだ。
野イチゴの花とハチミツの香りが優しい。
ディドルーの淹れるハーブティーとはまた違い、マリアのハーブティーはやはりお子様仕様なのかちょっと甘い。
「やぁ、もう出歩けるんだねぇ。良かった良かった」
開いているのかいないのか不明な目を細め、クレイルも茶を啜った。
「見張りは増やしてあるけど、今のところディアスポラの兵士やクヤン様は領内では見つかってないよ〜ん。この近辺なら安心して出歩いていいと思うよ」
一所に定住するのはレヴィンの性に合わぬらしい。
目が見えなくても彼は歩き続けるだろうし、ラヴェルもそれに付き合うつもりでいる。
「ああ、そうだ」
何か思い出したようにクレイルは腰を上げた。
どこかへ姿を消すと、相当な時間を経て彼は戻ってきた。
「これをレヴィンに渡そうと思ってたんだよ」
「……?」
クレイルが持ってきたのは、海を思わせる深い青色のマントだった。
レヴィンには見えないだろうが、シレジア王立学院の研究職を表す紋様が縫い取られている。
しっかりとした布地で、かなりの重量がありそうだ。
「ちょっといいだろ? 魔力を与えてあるから、レヴィンにぴったりだと思うんだ」
「レヴィン、羽織ってみれば?」
彼が長らく身につけていた古びたマントを脱ぐと、ラヴェルは新しいマントをレヴィンの肩に掛けた。
鮮やかな深い青が美しい。
肩から胸辺りまでは二重になっていて、美しい縫い取りが入っている。
「……………………うん、似合うよ」
「なんだ、その微妙な間は」
新しいマントはレヴィンに良く似合っている。
だが……以前のチンピラ風から、学院の不良生徒風になったとは口が裂けても言えまい。
どう見てもインテリ風ヤクザだ。
気取られぬうちにその感想を頭から追い払うとラヴェルは話題を変えた。
「このあとどうしようかな」
「まだ国内から出ないほうがいいよ〜?」
そう忠告するとクレイルは茶菓子に手を伸ばした。
「中央高地は本格的に内乱状態になってるし、ディアスポラもレヴィンの件以外に色々あるみたいだし」
そう続け、ない首をかしげる。
「ああ、でも逆にディアスポラでゴタゴタが始まれば、そっちに気を取られるだろうからノーマークになるかもねぇ」
教団の後継者争いと、求心力の落ちた教団の支配から脱しようとする豪族達との争い。
確かにそれらが始まれば、レヴィン一人など相手にしない可能性が大きい。
「まぁそれまではとりあえず、国内にいたら? 国外に出るとしても、交通上、ディアスポラか中央高地のどちらかを通らなければならないわけだし」
「そうですね……」
城を辞すと、詩人二人組は町を抜けて南へ進路を取った。
シレジアは森と湖の国という名前の通りに湖が多いが、その大半は山沿いや森の中にある。
しかし、シレジア南方、ベーメン地方とモラヴァ地方の境界付近には、平地にも幾つかの湖があるらしい。
モラヴァ地方に入ってすぐの町で二人は休むことにした。
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まだ明るいうちに酒場へ入ると、早目の夕食をとる者達で賑わっていた。
「この辺りで観光できる場所ってありませんか?」
「そうだなぁ」
ラヴェルがカウンターに近づいて尋ねると、木のビアジョッキを片手に、中年の男は少し考え込んだ。
「ああ、あれだ、ここから南西に丘を越えると綺麗な湖がある。目印になるモノがないから見落としちまいそうになるが、ちょっと良い所だぜ」
「やめとけ」
せっかくの情報を別の男が制した。
「お前、噂を知らないのか? あそこはやばいぜ」
「ああ? そうなのか?」
「何かあったんですか?」
ほろ酔い加減の男達がラヴェルの周りに集まってきた。
「ありゃ魔性の美しさだって言うぜ。死人の呪いが作ったって話だ」
焦げかけたソーセージをくわえ、その男はラヴェルを一瞥した。
「お前さん詩人だな? だったらますますやめとけ。あの湖はダメだ」
「どうしてです?」
ラヴェルが問い返すと、更に別の男が答えた。
「その湖でな、なぜか詩人ばかり姿を消すんだよ。幾日かするとぷかぷか浮いてるのさ」
「何でも水に吸い寄せられちまうように消えていくそうだぜ」
美しいものには別の顔があるという。
その湖には一体何があるのだろうか。
「妖精の仕業だとか、昔その湖で水死した奴の呪いだとか色々言われてるぜ」
「そうですか……」
自分の着いていたテーブルに戻るとラヴェルは根菜のスープを口に運んだ。
「どうしようか」
「任せる」
黒ビールのグラスを手に、レヴィンは色を変えた目をラヴェルに向けた。
「他に行く場所があるわけでもないしな」
マントを拝領したついでに町で服も新調し、レヴィンには丁度良い気分転換になったようだ。
だいぶさっぱりとした表情をしているのは気のせいではないだろう。
「んーじゃぁ、その湖に行ってみようか」
怖いもの見たさもあるし、たとえ何が起きてもレヴィンさえいれば何とかなる。
「詩人ばかりいなくなるっていうけど、大丈夫だよね?」
「ああ、心配するな」
ゆっくりと立ち上がりながら、まるで見えているかのようにレヴィンはチラッとラヴェルに目をやった。
「たとえその噂が本当でも、お前みたいな詩人未満には影響ないだろうよ」
「……未満……」
思わずラヴェルは呻いた。
馬鹿は死んでも治らないというが、性格が悪いのは本当に治らないらしい。
諦めに似た開き直りでラヴェルは勇んで歩き出した。
町を抜け、丘の合間の葦原を抜け、湿った木道を歩いて茂みをくぐる。
「……うわぁ……」
ひときわ大きな茂みを抜けるとラヴェルは足を止めた。
木立と丘を背景に、鮮やかな紺色の水が静かに空を映している。
それは深く透明で、葦の根元や水中に没した古木までもがはっきりと見て取れる。
周囲を見、湖面を見、ラヴェルは足が震えた。
やがて声も出ないままペタリと座り込む。
その背後にレヴィンは黙って立っている。
「ああ!」
溜息にも似た歓喜の声がラヴェルの口から漏れた。
「レヴィンにも見せてあげたいよ」
背後の相棒はやはり黙ったままだが静かにうなずいた。
風に葦が触れ合い、涼しそうな音を立てる。
二人はただ無言でその景色の中に身を置いていた。
ただひたすらに美しい湖。
人が湖に吸い寄せられるように姿を消していくというのは判る気がする。
妖精の幻影にでもかかったかのような神秘的な風景だ。
風が吹き、雲が流れ行く。
辺りが暗くなり始めたことに気付き、ラヴェルはようやく我に返った。
まるで妖精界に行って返ってきたように、思いのほかに時間を過ごしてしまったようだ。
夕暮れに周囲の景色が無彩色に落ち着きつつある。
「長居をしちゃったね。ここで野宿かな」
半分朽ち掛け、半分生きている巨木の下に二人は腰を下ろした。
砂を敷き、石を積んで小さな炉を作ると暖をとる。
微かな水音と葦のそよぐ音に、いつの間にかラヴェルは眠りに落ちていた。
つづく
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