がんばれ吟遊詩人! 〜ラヴェル君の場合2〜
第12話:暗き波の下で(前編)
船の彼方にアルスターの岬が霞んでいる。
二人はミストラントまで降りると内紛が表面化したディアスポラの間隙を縫ってその地を突っ切り、ケルティアへと脱出した。
妖精の庭ケルティアと聖地ディアスポラは共に聖騎士クヤンを長としていたが、彼亡き後の様子は大幅に違いを見せ始めている。
ぬかるむ大地を踏めば、霧巻く野を背景に王城が黒く濡れそぼっている。
戦乱に突入した国があれば不気味な沈黙に落ちている国もある。
「冷えるね」
「ああ」
宿で体を温めながらラヴェルは曇る窓の外を眺めていたが、レヴィンは何か考え込んでいるようだった。
光が薄れ、夜の暗がりが辺りを覆い始める。
ラヴェルが寝息を立て始めるとレヴィンは灯りを消した。
手探りで荷物を引き寄せると汚れた包帯を取り替える。
前は魔性の瞳を隠すためだったが、今は瞳を失った眼窩を守るためだ。
バロールの証である魔眼。
しかし、それを失えば彼からバロールが離れるというわけではない。
暗い魔性の存在はまだレヴィンの中で息を潜めている。
「……ッ」
誤って瞼の隙間に指を入れ、痛みに思わず声が漏れそうになる。
指先に触れた湿り気を拭い、レヴィンは溜息をついた。
ベッドの上にしばらくそのまま彼は静かにしていたが、やがて一人、宿の外へ出た。
持つだけ無意味だとでもいうように灯りすら手にせず、町を外れ、北の岬へ歩いていく。
そこにあるのは断崖の上に崩れた遺跡だ。
元々崩れていたが、更に最近崩壊したらしく、地下へ通じる入り口は失われていた。
燐光が淡く飛び交う中、レヴィンは立ち止まった。
夜の冷たい潮風だけが通り過ぎていく。
乾いた手を伸ばすと、何かが指先に触れた。
石造りのレリーフだ。
指で探ればそこに彫られているのは魔眼の象徴、一つの大きな目だ。
(バロールか……)
その魔物は強大な魔力の逸話と幾つかの伝説が残されているが、正体についてはよくわかっていない。
海底の魔性の一族フォモールの長の一人であったということくらいしか伝わっていないのだ。
己を蝕む存在についてレヴィンはそれまでにも幾つか仮説を立ててみたが、どれもぱっとしなかった。
(ん……?)
何かの気配が動いた気がした。
傾いた石柱の陰に身を潜める。
(何もいないはずだが……)
気配を探るが、何も見つけられない。
だが、気配とは違う何かがその存在をレヴィンに教えている。
突如霧が濃く渦巻いた。
「……しまった」
冷たく濡れる霧に包まれ、青いマントがじっとりと重く水を含む。
「……?」
ふと気付けば、周囲の雰囲気が変化していた。
どこかへ移動させられたらしい。
柔らかな羽毛が舞い落ちるようにゆっくりと沈んでいく。
(精神世界……いや、どこかの水中か……?)
恐ろしく冷たい水に包まれるものの、ほとんど現実の感覚を失った身体には、その冷たさは他人事のように感じられる。
(……重いな)
体が鉛で出来ているように重い。
どうやら水中をたゆたいながら徐々に沈んでいるらしい。
時間の感覚が麻痺している。
体の重さに任せて沈んで行くが、いつになったら底に着くのか。
泡が昇っていくかすかな音を耳が捉える。
(何が見えている……)
レヴィンの視界に燐光のようなものが浮かぶ。
彼には何も見えないはずだ。
だが、確かにそれは見えていた。
海底にかすかに光る青い燐光。
水火。
水中で燃える鬼火だ。
徐々に徐々に、その薄い光の帯に近づいていく。
「これは……」
そこが空間の接点であることにレヴィンは気付いた。
異界……恐らく妖精界との接点だ。
目に見えずとも浮かんでくるのが幻影というものだ。
存在しない風景をレヴィンは無言で見つめた。
今見ているのもは幻の景色。
海底に青黒い瓦礫が大量に沈んでいる。
不気味な深海魚が横切り、海底からは泡が燐光を浴びて輝き昇っていく。
瓦礫の隙間にレヴィンは降り立った。
古代の遺跡の残骸だ。
恐ろしく深い場所。
太陽の光も届かぬ水の底。
息を吐けば泡が口から漏れる。
その代わりに水が肺へ入り込むが、不思議と苦しさは感じない。
自分も水の一部になったような感覚だ。
実際、淡く燃える鬼火は自分の体をすり抜けていく。
海底の瓦礫の隙間から漏れる瘴気が鬼火となって燃え、残りは泡となって湧き出している。
瘴気。
山岳の沼や墓場、古戦場などに溜まる一種の霊気。
それはとてつもなく冷たく陰気だ。
混沌や地の底から湧き出し、妖魔を呼び寄せ、また死霊や悪魔のエサともなる不気味な空気の流れ。
だがそれは逆に言うなら大きなエネルギーを持っていることの表れでもある。
「瘴気の巣か……」
レヴィンの身体の芯に巣食っている者が、レヴィンの意志とは関係なしに周囲の鬼火や瘴気を吸い取っている。
代わりに吐き出されるのは大量の魔力だ。
それと同時に別のものも吐き出されている。
ひび割れた青い水晶の宝珠がやはり瘴気を吸い取り、代わりにに何の穢れもない精気を吐き出している。
天の霊気とも等しいそれは周囲の瘴気を浄化していく。
セラフのうち、水を司る者。
吹きだす泡が光り輝き乱れ舞っている。
自分が周囲の水を浄化していることに気付き、レヴィンは輝く泡をしばらく眺めていた。
別に浄化しようと思って何かをしているわけではないが、濁った瘴気は次々と澄み、精気と変わると淡い緑に輝いている。
その様子をしばらく見つめ、やっとレヴィンは気付いた。
(精神体か、俺は)
|
時間がずれている。
(昔の景色を見ているな……)
見えぬ目に映るのは、今はもうないはずの風景。
現世から旅立って逝った者の顔がゆらゆらと揺れている。
死者をも迎え入れる妖精界へ去っていく多くの魂魄達。
その中に強い殺気を感じ、レヴィンは振り向いた。
鮮やかな金髪と白い衣服が輝いている。
聖騎士クヤン。
だがその幻影も揺らいで消えた。
(そういえばあいつはどうなった……?)
クヤンとは幾度か戦っている。
シレジア国境の森で襲いかかってきた彼だが、かつては海底の神殿で戦ったこともある。
見回せば瓦礫にヒビの入った聖剣が突き刺さっていた。
見る影もなく刃こぼれし、ヒビが入り血に錆びて輝きを失っている。
(幻のはず……)
クヤンの剣は今アルスターの城にあるはずだ。
手に取ってみるが重さを感じない。
やはりこれは幻のようだ。
周囲をもう一度確めても聖騎士の姿は浮かんでこなかった。
(ふむ……)
レヴィンは頭上を見上げてみた。
ただ暗いだけで何も見えない。
(さて、どうやって戻るか……)
どうやら身体から精神だけが分離されてしまっているらしい。
(…………)
瓦礫の山の向こうに何か沈んでいる。
それに気付くとレヴィンは注意深く近づいた。
死体だ。
「ここにいたか」
半ば瓦礫に埋もれるように横たわっているのはクヤンの死体だった。
水にふやけ、魚に傷をつつかれたのか、正視したくない形相になり果てている。
そのすぐ脇に、うっすらと女のような影が見て取れた。
(さてはこれが幻の女王だな)
ケルティアの歴史の中に幾たびも現れる正体不明の妖精の女。
(アヴァロンの女王か……)
妖精界であり死者の世界でもあるアヴァロン。
クヤンを連れて行く気なのだろうか。
(……?)
レヴィンが拾い上げた王者の剣が光った。
ボロボロの刀身が見る間に修復されていく。
(剣……)
かつてレヴィンと争い倒れたクヤンはその後、エインヘリヤルとなって天空を舞台に再び襲い掛かってきた。
天上の大神ウーデンもしくはフレイヤが率いる死した英雄、エインヘリヤル。
ならばクヤンの魂は今は天上界にいるはずだ。
となると、今度は先般襲い掛かってきた彼は何者なのか、という疑問が浮かんでくる。
(女王の仕業か……?)
レヴィンの手から王者の聖剣がふっと消えた。
本物の剣は今、アルスターの城にあるはずだ。
「……確める必要があるな」
アルスターに返されたエクスカリバーは新品のように輝いていた。
だが、先ほどまで幻影の瓦礫に突き刺さっていた剣は、見たこともないくらいにボロボロだった。
(物質崩壊か……?)
どんな物でも跡形もなく粉砕する魔法があるという。
だがいかなレヴィンにもそんな物騒な魔法は使えない。
石壁を砂に変えることは出来るが、それは同じ大地から生まれたという性質に働きかけてのことだ。
(崩壊を仕掛けたのは俺ではない……)
クヤンが戦ったのはレヴィンだ。
だがレヴィンには剣を破壊した心当たりがない。
王者の剣を破壊するなど並大抵ではできないことだ。
見えないはずの目を上げれば、幻の女王が見えた。
彼女はこちらを見ている。
だが視線が合わない。
女王は……レヴィンの背後の何かと睨み合っていた。
それに気付き、レヴィンは無意識に身を強張らせた。
いつの間にか背後にいたのは……魔に身を落とした古き大樹の女神。
その足元にはレヴィンが手放した古いリュートが沈んでいる。
何度手放してもいつの間にか戻ってくるリュートが。
かの女は何としてでもレヴィンにそれを持たせたいらしい。
(そうか……奴がいたな)
レヴィンの背後に立つ存在が狙っているのは幻の女王ではない。
彼の中に眠っている存在……魔眼のバロールだ。
はっと気付けば冷たい霧が頬に当たっていた。
何も見えない。
彼以外の気配もない。
手を動かせば冷え切った石材が触れる。
(戻ったか……)
崖の下からは岸壁にぶつかる波音が低くうなりを上げている。
ここは北の岬の遺跡だ。
現世に戻ったのか、それとも夢を見ていたのか。
海から吹きつける風が冷たさを増してくる。
幻聴のような海鳴りを聞き、レヴィンはしばらくそこに身を潜めていたが、やがて無言で町へと戻っていった。
|
冷たい霧に玄武岩の大地が霞んでいる。
それでも食堂や酒場へ入れば陽気な音楽に満ちているのはケルティアならではだろう。
ケルティックハープやバグパイプの奏でる音を聞き流しながら、ラヴェルは揚げ魚を腹に押し込んでいる。
「それにしてもさ、何でなの?」
塩と酢のついた指を舐めると、ラヴェルは向かいの椅子で黙しているレヴィンに声を掛けた。
「特に行くあてもないんだし、わざわざ危険な場所にばかり来なくても」
ラヴェルに話しかけられ、レヴィンはゆっくりと目を開いた。
薄紫の瞳がラヴェルに向けられるが、その目には何も映っていないはずだ。
「どうも引っかかってな」
はっきりとした確信はないようだが、レヴィンは何か考えがあるようだった。
何も宿さぬ薄紫の目。
おそらくは、この色が本来のレヴィンの瞳なのだろう。
だがレヴィンを知る者は皆、彼の瞳は毒々しいまでの赤い色だと思っている。
レヴィンの中に巣食う、魔性の存在バロール。
それがレヴィンの瞳の色を変えていたのだ。
このケルティアの王にしてディアスポラの最高司祭でもあった聖騎士クヤン。
彼が敵と断じて追い続けた存在こそがバロールであり、望まずながらもその宿主となっているのがレヴィンでもあった。
そのクヤンが治めた国や地域ばかり足を踏み入れるのは、いくらクヤン亡き後といっても危険極まりない。
しかも死んだはずのクヤンの影が嗅ぎ取れるのだ。
「何が引っかかるの?」
いつかファーガスから教わったとおり、ラヴェルは揚げ魚にこれでもかというほど酢と塩をかけた。
……そんなに大量にかけろとは言われていないはずだが。
「いつだったか言ったろう、どうも何かに追われている気がするとな」
「ああ、その話ね」
ラヴェルはちぎった白身を口に含もうとして手を止めた。
「たしか中央高地であった変なローブ男だよね。でもあれは天空で退治したんじゃなかったのかい?」
「ああ、確かにな。だが、何かに見張られているような気配は消えない。他の何かがまだ残っていやがるんだろう。だが、それが何者なのか全く見当がつかん」
「それがクヤン様かもしれないってことか……」
ラヴェルは困ったように眉根を寄せたものの、考えたところで答えが出るわけでもない。
とりあえずは……腹ごしらえだ。
指につまんでいた魚を口に入れようとしたまさしくその瞬間。
「いよう!」
「ぎゃんっ!?」
陽気な酔っ払いに背を思い切り叩かれ、はずみでラヴェルは口元に寄せていた自分の指に思い切り噛み付いた。
「ねぇちゃんも詩人さんだろ? 何か一曲歌ってくれよ」
「……はぐっ……」
自分は男だと反論したいのだが、ラヴェルはあまりの痛みに声も出ない。
指の噛み傷に、酢と塩がありえないほどにしみる。
歯を食いしばりながらラヴェルは竪琴とグローブのように腫れ上がった指を交互に酔っ払いに示した。
「そうかい、無理言って済まなかったな」
何故こんな事態になったのか自覚していない酔っ払いはさも残念そうに離れていったが、見えていないレヴィンの目が限りなく白いままラヴェルに向けられている。
「……説明がいるかい?」
「いらん。どうせ自分の指も食ったんだろ」
「…………」
見えていない割には的確に状況を察すると、レヴィンはエールのグラスを口元に寄せ、そこで手を止めた。
「王者の剣、か」
「?」
レヴィンが見知らぬ詩人の方を振り仰いだことに気付き、ラヴェルも視線を向けた。
シャムロックの掘り込まれたハープを片手に、流れの詩人が英雄譚を語っている。
赤き砦の英雄の群れ
その中に名高きは
ロトの赤き血を引く勇者
剣の道を選びて玉座を蹴り
一人戦士として戦場を駆け巡る
手にするは煌きの剣
硬き稲妻の如き閃きに
敵う者はなし
その詩人が歌っていたのは、かつてアルスターにいた英雄の物語だった。
ケルティアでは英雄の数だけ名剣があるとも言われているが、歌の勇者もまた業物の所有者であったようだ。
クヤンが王者の証としてエクスカリバーを継いでいたように、伝説に名剣・名槍の類は欠く事がない。
「さっきの話だが」
英雄譚を聞き流しながらレヴィンはラヴェルに向き直った。
「何故ケルティアにばかり来るのか、ということだが」
そこで一度考えるかのように沈黙すると、レヴィンは見えない目をラヴェルに向けた。
「正直、何が俺に目をつけているのかはわからない。だが、わからないからといってそのまま追われ続けるのは性に合わん。ならば追っ手の目に身をさらして、相手を引きずり出してみようと思っている。相手がかかるかどうかはわからんがな」
「で、出てきたのがクヤン様の影だったってこと?」
ラヴェルが問い返すとレヴィンはまた考え込んだようだった。
「どうもあれはクヤン本人ではないような気がする。よくわからんが……その謎がどうもケルティアにあるような気がしてな」
クヤンといえばケルティアの王でありディアスポラの最高司祭だ。
ディアスポラは交通の要所であるから旅人であれば否応なく何度も通らねばならないが、ケルティアまでは用がないならわざわざ海を渡ることはあるまい。
「謎って?」
聞き返すラヴェルにレヴィンは肩をすくめて見せた。
「それがわかれば苦労はせんよ」
「うーん、それはそうだけど」
口の中のものを飲み込むとラヴェルは一息ついた。
振り返れば、流れの詩人の歌はいつしか恨み節になっていた。
|
ああ、我が王よネスの子よ
何ということをしてくれたのか
豪の王、ネスの子コノール
数多の英雄抱えし主も
心に隙ありて
己の騎士を波の向こうへ貶める
我が王ということは、この詩人は地元出身の人間なのだろう。
耳を傾けて聴けば、どうやら昔のアルスター王、コノール・マックネッサについて歌っているようだった。
「そういえばさ」
ラヴェルは視線を戻すとレヴィンの顔を覗きこんだ。
「ケルティアの詩でよく波の向こうっていう表現があるんだけど、あれはどういう意味?」
「直訳するなら海の底って意味さ」
指先でさりげなくグラスを探り当てるとレヴィンは軽く喉を潤した。
「ケルティアでは、海の底にはマグ・メル……妖精や死者の楽園があるという。わかりやすくいうならあの世へ逝くってことだ。九つの波を越えるという表現もあるが、意味は同じだ。暗き波の下にある死の世界」
そういうと、ふとレヴィンは何か思い出したように一瞬だけ表情を険しくしたが、またすぐに戻った。
「レヴィン?」
「いや、なんでもない」
背後では詩人の英雄譚がまだ続いているようだった。
エールのつまみに二人はしばらく歌の続きを聞いていた。
怒りしは騎士の友、王の友
気高き煌きの剣の勇者
王の代わりに山を切り捨て
エマイン・マハに別れ告ぐ
去りて向かうは宿敵コナハト
メイヴの使い飛び交いし
荒々しき果てなる地
かくして煌きの剣は我らを離れ
災いなるかな
戦女王の愛を得て
刃は敵のさなかにより激しく輝かん
「……かの時より稲妻は我らに向けられたり」
詩人が歌い終わると、帽子が酒場内をまわされる。
ラヴェルもその帽子にわずかの硬貨を投げ入れ、拍手を送った。
レヴィンもコインを弾いたようだったが、何か思いついたようにラヴェルに声を掛けた。
「エマイン・マハに行ってみるか?」
「え? ああ、今の歌に出てきたところだね。どこにあるの?」
「エヴァン・ヴァハといえばわかるか? 今のアルスター城だ」
「あー、お城のことね」
アルスター城ならすぐ目の前だ。
「でもなんで?」
「ちょっと確めたいことがある。ついてくるか?」
「もちろん!」
気になることは確かめた方がいい。
グラスの残りを飲み干すとラヴェルは元気よくうなずいた。
つづく
|