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がんばれ吟遊詩人! 〜ラヴェル君の場合2〜

第14話:風(後編)

 風の道。
 かつての英雄の足跡をそう呼ぶ。
 中央高地の中では西に位置する都市国家ウィンザイルは、風の町とも呼ばれる。
 その建国の祖ウィンドシアが旅したというのが、今、詩人二人が歩いているこの果てしなく険しい道だった。
 かの英雄は故郷の町を出、ミストラントを抜けるとニブルヘイムへ至り、その魔境で手に入れた剣を携えて戻ると、戦乱を収めてウィンザイルの町を都市国家へ押し上げたのだ。
 ケルティアでは英雄の数だけ剣があるといわれるが、風の英雄の伝説もまた業物の剣とともに伝えられている。
 交わす言葉もなく二人はただ黙々と薄暗い道を歩いた。
 視界は霞み、幻影のように流れ、足元は濡れる岩が鈍く光っている。
 緩やかな丘陵地帯は常に湿って重苦しい霧が覆っている。
 霧の国の名の通り、ミストラントは常にこのような天候で、景色もどことなく鬱々としている。
 じっとりとマントが濡れるにも関わらず、ひたすらに幻の中を歩いていく。
 そんな中を一体どれくらい歩いただろうか。
「嫌な場所だね……相変わらず」
 濃灰色に澱む空をラヴェルは見上げて呻いた。
 もはや歩いた日数すらもあやふやになってくる。
 霧の中に時折陰火が混じり飛ぶ。
 辺りを漂う霧はもはや雨霧ではなく、瘴気が姿を変えた魔性の霧だった。
 北大陸はミストラント南西から延びる細い地峡によって南西大陸と結ばれている。
 この地峡の北半分がニブルヘイムと呼ばれる地域で、霧と夜の国、あるいは死者の国と呼ばれる不気味な魔境である。
 太陽が出ず、瘴気を伴った霧が渦巻いている。
 こんな不気味な魔境を、風の英雄はたった一人で踏破したそうだ。
 もうここはニブルヘイムのただ中だ。
 特に何かきっかけがあったわけでもないだろうが、突如レヴィンが小声で何か歌い始めた。

 黒き刃 振りかざすは 風より守る者
 地を削る 鷲のはばたきにも似て
 山野を凍らす 木枯らしにも似て
 戦場を駆け巡り 血を求め
 死者を貪り喰らうは 黒き魔の風
 凍れる虚ろと 燃え滾(たぎ)る心
 相容れぬものを 内に秘めして
 何も語らず
 ただ 一つのみを 激しく求むるも
 何も手に得ることかなわず

 天へ吹き去りし 一陣の風
 そは禍き剣を 操(く)りし者
 忘られぬ名を 我は呼ぶ
 すなわち 風より守る者、と

 乾いた風が時折山を啼かせる。
 無彩色に枯れた山道を二人は南下した。
 どこからともなく魔物の呻き声のような声が響き、周囲には燐光が時折青い光をたてる。
 今はただ風だけが強く吹きすぎていく。
 声を出すことを喉が忘れるのではないかというくらい長い間二人はただ黙って歩いた。
 暗く染まる高い空を時折見上げるが、濃淡すらない灰色の広がりが崖の上に見えるだけだった。
 陽の昇らぬ日を幾日か過ぎ、二人は獣道を脇へそれた。



 瓦礫と岩肌だけの道を進めばやがて足元を深い裂け目が遮った。
 崖、というものとは違う。
 大地がぱっくりと割れ、地の底は暗い闇に飲まれて見ることが出来ない。
 この世界の原初の場所とされる、ギンヌンガの地溝だ。
 炎と氷が別れる場所、炎と氷が出会う場所。
 夜と死者の国、そして霧と夜の国ニブルヘイムと、灼熱の炎の国ムスペルヘイムの境界、それがギンヌンガ・ギャップである。
 足下の谷間を、轟音を伴った風が吹きぬけていく。
「フレスベルグといってな」
 この地溝の上には巨大な鷲が住み、その羽ばたきは嵐となって吹き荒れるという。
 不吉なその鷲は、戦場を飛び交って死者を貪り食うともいわれている。
 ギンヌンガの割れ目に沿って進めば、やがて天然の展望台とも言うべき高台へ出た。
 眼下には霧が青く赤く明滅し、彼方には灰色の山脈と、その切れ目には赤く火を吹く山が怪しく光っている。
「何て景色だ……」
 風の英雄もこの景色を見ただろうか?
 ラヴェルは息を飲んで立ち尽くした。
 世界の始まりがここにある。
 魔力を含んで吹き荒れる風の中、かすかに歌声が聞こえた。
 振り向けば遠くを見たままレヴィンが何か口ずさんでいる。

 天を駆け、地を流れ、海を渡り、世界をめぐる
 時を歩み、始まりより生まれて終わりへと還る
 風は全ての先導者にて、全てを知るもの
 なれば大樹と同じ運命にて、宇宙の理なり

 天空の上都ザナドゥ。
 水のセラフの時代に滅びを迎えたそこは、かつては風のセラフの都だった。
「風は気まぐれだが叡智を司るだけあって聡明だ。世界中を駆け巡り、知らぬことはない」
 ギンヌンガは風の集まる場所、風が生まれる場所だといわれる。
「ニブルヘイムは南のムスペルヘイムと並び、ミドガルドの始まりの地といわれる。一見不毛に見えるが、もしかするとこの地上でもっとも豊かなのかもしれんな」
 半分独り言のようなレヴィンの言葉にラヴェルも黙ってうなずいた。
 世界が始まった場所であるならば、世界を生むだけの……世界の全てがここにあるのかもしれない。
 冷たく暗い空を赤く焦がす遠くの火山をじっと見つめる。
 周囲には何の命の気配もない。
 だが、ラヴェルはレヴィンと同じく、この激しいまでに殺風景な景色に莫大な力を感じ取った。
 この地はミドガルドで一番豊かな場所なのだろう。
 これだけの風と炎に恵まれているのであれば。



 赤く、そして青く渦巻く空の下、二人は凍える風が吹きぬけるギンヌンガを渡った。
 ラヴェルには到底渡ることは不可能に思えたが、凍える風が吹きつける岩壁には氷がへばりつき、天然の橋のように地溝の対岸同士を結び付けていた。
 ニブルヘイムは死者の国とも呼ばれる。
 ここにはヘル……冥界の入り口があるのだ。
 神話では、強い魂を持つ人間は死んでも消えず、ウーデンやフレイヤが選び取ると言われている。
 それ以外の強い魂は強さ故に消え果てることが出来ず、ヘルが迎え入れるという。
 この凍えた大地の下にはそのような魂が数多く眠っているといわれている。
 死者といってもそれらは消してゾンビやグールの類ではない。
 もちろん瘴気に当てられ、近寄ってくるアンデッドの類も多いのだが。
 険しく道もないような岩壁を二人は下へ下へと降りていった。
 やがて山肌に巨大でどこか空虚な穴が姿を現す。
「ヘルの洞窟への入り口だ」
 死者の女王と、そして女王と同じ名を持つ異界……冥府。
「……生きた人間が行っていい場所なのかな?」
「知らんよ」
 制するようにレヴィンはラヴェルの前に片腕を広げた。
 洞窟の奥から、陰気でありながら激しさを感じさせる唸り声が響いた。
 闇の中に青く目が光る。
「番犬のお出ましだ」
 神々の猟犬、地獄の入り口を守るというガルム。
 黒銀色に光るたてがみを逆立て、巨躯が二人の前に立ち塞がった。
「レヴィン、これどうするの」
 背筋が硬く強張るのを感じラヴェルは尋ねた。
 番犬といえば番犬だが、何せ神の領域の獣だ。
 こんなものは神話の中の生き物のはずだった。
 だがレヴィンはさして気にとめた様子はなかった。
 戦おうという姿勢すら見せず、レヴィンはあっさり言い放った。
「何、所詮は犬さ」
 言うが早いか何かをあらぬ方向へ放り投げる。
 太い鍵爪が岩肌を抉った。
 ガルムが投げ捨てられた何かに向けて疾駆していく。
「えっと……」
 拍子抜けしてラヴェルはレヴィンを見上げた。
「やり過ごせればなんだっていいだろう」
「そうだけど……」
 躊躇せず洞窟へ踏み込むレヴィンの後をラヴェルはあわてて追った。
 洞窟の外で犬が骨をくわえているのをちらちらと振り返りながら、ラヴェルは洞窟をより深く降りて行く。
 そこは洞窟の内部とは思えぬほど広かった。
 外の山岳と同じような景色が大地の下にも続いていたのだ。
 乾ききった斜面、転がる岩、地底に濁って溜まる瘴気の沼。
 死者の世界というより、この場所そのものが死んでいるようにすら思える。
 緑溢れるミドガルドの一部とは到底思えない。
 いや、あるいは妖精界のように、触れ合った異界に紛れ込んでいるのかもしれない。
「あの先は……」
 やがて辿り着いた場所でラヴェルは足を止めた。
 彼らの前には細くくねった道が一本続いているだけだった。
 道の両脇は、まるで山脈の鋭い尾根のように何もない。
 垂直に近い急斜面が地の底深くへ落ち込んでいる。
 落ちたら本当にあの世行きだろう。
「あの先はヘルの館さ……行くぞ」
 レヴィンに促され、ラヴェルは細い道に恐る恐る踏み出した。



 見えぬ地の底から死者が終わりのない眠りにうなされる声がぼんやりとこだまして響いている。
 すえたようなにおいの空気が濃い。
 死の荒野のような中を抜け、やがて二人は足を止めた。
 目の前を壁が塞ぎ、巨大な黒い門が硬く閉ざされている。
 その鉄扉には禍々しいルーンがびっしりと刻み込まれ、燐光のような光を怪しく揺らめかせていた。
 どこからともなく、風の音のような声が響く。
 幻聴かと思ってラヴェルは頭を振ったが、変わらずその声は頭の中に響いてきた。

 氷は火を怖れ
 火は氷に怯る
 火より守るもの
 氷より守るもの
 出会いは滅びの印にて
 触れてはならぬ
 触れてはならぬ
 氷と炎を逢わするものに

「レヴィン、この声は何?」
「問答歌だ……静かにしろ。ニブルヘイムとムスペルヘイムのことを歌っている」
 霧と夜の国と炎と灼熱の国。
 二つの魔境はギンヌンガの地溝で出会い、分けられている。

 氷は火を絶やし
 火は氷を消する
 光を打つるもの
 闇を飲むるもの
 滅びは世界の定めにて
 知りてはならぬ
 知りてはならぬ
 氷と炎を分けつるものを

 それきりその幻影のような声は消えた。
 ただ風だけが吹いている。
 レヴィンは手をその扉に押し当てた。
 歌に歌で答える。
「我は知る、光と闇を掲げ、炎と氷を分かつは凶鳥の定めにて、大地を穿つ荒れ狂う風、すなわちフレスベルグと」
 扉から手を離すとレヴィンは魔力を掲げた。
「答えは風だ」
 手加減無しに叩きつける。
「ウィンツブラオト!」
 激しい空気の流れに触れ、扉の表面にうっすらと大鷲のような模様が浮かんで消える。
 荒れ狂う風がすべてを打ち砕いた。
 轟音を上げ、硬く閉ざされていたはずの扉がいとも簡単に吹き飛び、暗闇の底に落下していく。
 手を前に掲げたままのレヴィンがようやく腕を降ろした。
 その横でラヴェルは意味もなくつばを飲み込んだ。
 ただそこに立っているだけでも死の気配が身に纏わりついてくるのを感じる。
 妙な寒気と、心を縛るような寂しさ、理由もなく感じる悲しさと死の恐怖。
 ひたすらに濃い闇だけが目の前に広がっている。

 今、ヘルの宮殿の扉が開かれた。

つづく

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