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がんばれ吟遊詩人! 〜ラヴェル君の場合2〜

第7話:マビノギ(後編)

 小舟をきしませ湖を渡る。
 対岸は……普通の原野だった。
「ははは、妖精郷だと思ったかい?」
 恐る恐るといった様子で大地を足でつついているラヴェルをファーガスは笑いながら眺めていた。
 ケルティアは妖精の庭といわれるだけあり、あちこちで異界と接しているという。
「さて、湖水地方を突っ切るぞ。ついて来いよ」
 朝霧が消えると、曇り空を映して大小数多くの湖面が銀色に輝いている。
「前に湖には妖精の女王がいるっていったが、ケルティアには女王の伝説が多くてな」
 湿地の木道を渡りながらファーガスは昔話の類をかいつまんで語った。
「例えば、昔、コナハトに女王がいた。妖しく好戦的で強大だった。彼女は死ぬと戦の女神、妖精の女王になったとさ」
 ファーガスはどこか自慢そうにその名を告げた。
「メイヴ。女王メイヴの話がそれさ」
 非常に好戦的で荒っぽい彼女は昔話に幾つもの逸話を残している。
 美しかった湖沼は背後に去り、高原の荒削りな風景の中にヒースの小さく赤い花が寒そうに揺れている。
「王都まで行こうぜ」
 アルスター高地地方の険しい地形を眺めながら、三人は岩と泥炭の混じる原野を東に向けて歩いた。
「アルトニアも数々の伝説を生んできたが……そうだな」
 そこで言葉を切るとファーガスは立ち止まった。
「例えば、岩山に住む一つ目の化け物が付近を荒らしまわったとか……ほれ、こんな奴」
「ぐきゃ!?」
 にこやかに笑みを浮かべる彼の目前で、突如ラヴェルは杭のように脳天から地面へ打ち込まれた。
 地面から這い出した何かが太い腕を振り上げたのだ。
「ファハンて言ってな」
 剣を無造作に引き抜き、振り向きざまにファーガスは刃を薙いだ。
 太い絶叫と共に腕が切断されて泥に還る。
「まったく、別の話をするはずだったのが予定が狂ったじゃねぇか」
 腕を切り落とされ、一つ目の巨人は怒りで目を血走らせた。
 しかし奇怪な姿だ。
 地面から首だけ出し、ラヴェルはその怪物を注視した。
 一つ目の化け物は各地にいるが、この巨人は目も一つ、腕も切り落とされた一本のみで足も一本だ。
 その足がラヴェルの頭を踏みつける。
「はぐ!?」
「山や大地の妖精鬼でな、ただし性格は悪い」
 目に見えぬ力で泥の塊や岩を飛ばしてくるのをファーガスはことごとく剣で跳ね返し、切り落とした。
 あっという間に足元に泥の残骸が山のように積み上げられる。
「諦めの悪い奴だな」
 呆れたように呟くとファーガスは剣を一閃した。
 巨体を見事に切断してのける。
 山崩れのような轟音はファハンの絶叫だ。
 大地に沈み込んで消えるそれを見届け、ファーガスは刃の泥を拭った。
 しかし。
 他人事のように眺めていたレヴィンが赤い視線を彷徨わせた。
「これからが本番みたいだな」
「おっと」
 地面が奇妙に揺れた。
 泥や岩が盛り上がり、一つ一つが妖精鬼へと姿を変える。
「数が多けりゃいいってもんでもないだろうが」
 舌打ちを漏らすとファーガスは珍しく真面目に剣を構えた。
「機嫌を損ねたか? こんな所、人間はほとんど通らねぇからな。久々のご馳走だったんだろうが、そう簡単にくれてやるわけにもいかねぇんだぜ」
 大量のファハンにドゥエルガル、ゴブリンやバーゲストの類が一斉に湧き出した。
 どれも大地に関わりのある生き物だ。
 巻き上げられる泥を華麗に避け、ファーガスの剣が鋭く輝いた。
 一本腕に握られた鈍器を切り飛ばし、巨人の体をやすやすと切断しては大地に返す。
 ラヴェルはようやく地面から抜け出すと突進してくる妖精獣を何とか避け、泥まみれのレイピアをその背に突き立てた。
 視線を上げればファーガスの大剣が金色に輝いては鋭く曲線を描き、獲物を残骸へと変えていく。
「フェアアイゼン!」
 レヴィンの手が印を描き、周囲が凍える空気に硬く包まれる。
 立て続けに唱え始められた呪文に、ラヴェルは一歩下がると身を伏せた。
「暴れ狂え、躍れ爆炎……我、全てを灰塵に帰さん……フランメン・メーア」
 炎とともに、凄まじい熱気が辺りを焼き払う。
 大地が煮え立つような音と湯気を吐く。
 固まった景色が、大音響と共に砕け散った。
 冷え固まった大地が急に熱せられ、温度差に耐え切れずに崩壊したのだ。
 熱蒸気を噴き出し、巨人や黒小人もぼろぼろに砕け散る。
 白く染まる視界をものともせず、むしろ味方につけ、死角からファーガスが怪物の群れに切り込んだ。
 高温に感覚を奪われた妖精鬼を撹乱すると、情け容赦なく切り捨てる。
 巨人の棍棒や鈍器が砕け散り、本体は泥に埋もれる。
 泥を撒き散らして突進する妖精獣も剣の動きには早さが追いつかず、襲い掛かる前に立ち割られて絶命していく。
「――――」
 微かに聞こえる詠唱にファーガスはちらと視線をやり、大きく飛び退いた。
 呼びかけに応じた風の精が力を現世に送り出す。
「シュピラール!」
 大地をえぐりながら風が怪物の間を渦を巻いて駆け抜ける。
 巻き上げられ、やがて叩きつけられ、妖精鬼の呻く声が辺りに幾つも響き渡った。
 つむじ風が抜けても、今度は刃が辺りを薙いで行く。
 最後に残った巨大なファハンをファーガスが袈裟懸けに仕留めると、ようやく大地は震えるのをやめた。
「おう、お疲れさん」
 ラヴェルとレヴィンに声を掛け、ファーガスは辺りを見渡した。
「高地帯はちょいと連中も荒っぽくてな。危ないってほどでもないが、早く抜けるとするか」
「充分に危ないと思うけど」
 溜息をつくとラヴェルはレイピアを鞘に納めた。
 岩の一つに腰をかけて休むと、ファーガスの手元を見つめる。
 握られているのは黄金色に煌く美しい剣だ。
「きれいな剣だね」
「ああ、これか?」
 泥を拭うとファーガスは剣を構え、軽く手首を返した。
 刃が空気を鋭く薙ぎ、きらめきが一閃する。
「こいつはクレイモアっていわれる類の剣でな、丁度この辺り、アルトニアの高地帯の人間が伝統的に使っている。切れ味がいいから、俺達みたいな騎士も良く使ってるんだぜ」
 これでも両手で扱う剣にしては小ぶりなほうだが、それゆえに素早い動きが出来るのだろう。
 張り出した鍔は刃に向かって傾斜し、先には小さなリング飾りが幾つか付いていて、それはクローバーの葉のようにも見える。
 鋭く長い刀身は長身のファーガスが扱うからこそ、一層切れ味が増す。
 ファーガスは軽々と振り回しているが、ラヴェルには構えるのが精一杯だろう。
 今ではレヴィンも蒼穹で手に入れた水煙の剣を腰に吊っているが、その剣に刃はついているものの、どうやら戦うためのものではないらしく、ラヴェルはレヴィンがその剣を抜いたところはまだ見たことがない。
 そもそも、仮にその剣が武器だとしても、彼に剣が使えるかどうか不明だが。
 刃を鞘に収め、ファーガスは水袋を口に当てた。
「さて、んじゃ王都に向かいますかね」
 東へ進路を取れば、また別の湖沼群を過ぎて平原に至る。
 ゆるく道を下りながらファーガスは遠くに見える黒い影を見つめた。
 アルスターの城だ。
「ここも伝説的な王や女王が幾人も玉座についてきた」
 遠くを紺の瞳で見つめながら、ファーガスは半分独り言のように語った。
「そいつも偉大な王だった。ただちょいと妬み深くてな。幾人もの優れた騎士やドルイドを抱えていたが、ある時、嫉妬から騎士を一人、死に追いやった。王の友であり、同じく騎士でもあった一人の男がそれに怒り、王の許を去るとやがてコナハトのメイヴに仕え、やがて妖精界へ去った」
 風が草原をざわざわと鳴らしている。
「そうだな、その王の頃からアルトニアがケルティアの中心になったんだったかな」
 やがて遠くに青く海面が光り始めた。
 黒い大地を丈の低い草が覆い、家並みの向こうに海が見える。
「着いたぜ」
 並々と堀に水を湛え、黒い玄武岩の城がどっしりと居を構えている。
 堀の外には陽気な音楽の漂うアルスターの町が広がり、城門前まで賑わいが伝わってくる。
「ようこそ」
 突然掛けられた声に振り向けば、そこには旅行用の長いヴェールを纏った貴婦人が立っていた。



 芳しい花の香りがする。
 繊細なレース編みのヴェールにはシャムロックの模様が織り込まれていた。
「門を開けて頂戴」
 人を使うことに慣れた声に、門番が恭しく礼をして扉を開ける。
「あなたは?」
 ラヴェルが問いかけると、貴婦人はヴェールを払った。
 この世の者とは思えぬ美貌にラヴェルははっと息を飲んだ。
 しかしその顔はどこかで会った事のある顔だ。
 侍女を連れて帰って来たのは、この城の今の主、王女ニニアだった。
「いつぞやの詩人達ですわね。もうお忘れになって?」
 目尻はたおやかに下がっているが、凛とした姿には威厳すら漂っている。
 さながら妖精の女王のようだ。
「訪問客はいつでも歓迎致しますよ。お入りくださいませ。お茶の用意を」
 侍女たちに命じ、城の女主人は奥へ姿を消した。
 やがて応接の間にラヴェルは通された。
 ガラスの三段トレイに宝石のような菓子が並び、芳醇な香りの紅茶が湯気を放っている。
「……なんか妙だな」
 まるで毒見でもするかのようにファーガスは少しずつ紅茶を口に含んだが、やがて問題無しと判断すると今度は遠慮無しに飲み始めた。
「この城、何か妙だぜ」
 廊下に控えている衛兵に気付かれないよう、ファーガスは声を落とした。
「まるで全体が眠っているみたいだ」
「そうかな? 喪中のせいじゃない?」
 ラヴェルの言葉に遍歴騎士は即座にカップを降ろした。
「は? 喪中? どういうことだ?」
「え? 知らなかったの?」
 各地の城を巡っている遍歴騎士であるならば情勢の変動には詳しいはずだ。
 幾分妙な感じを覚え、ラヴェルは確認するように言葉を続けた。
「国王のクヤン様が亡くなったんだよ。半年以上前だけど……本当に知らなかったの?」
「そりゃお前、ちょっと待てよ」
 不信感を隠そうともせずファーガスは真っ直ぐラヴェルを見た。
「誰も何も言ってないぜ? どこの町でも噂にすらなってねぇ」
「……緘口令でも敷かれているんじゃないのか? 少なくとも五地方の代表は知っている。国王の選出についての会議をしたくらいだからな」
 美しい赤に透ける紅茶を見つめながら、レヴィンの声にもどこか探るような響きがあった。
 しばらく前にこの城において、新しい国王を決めるための円卓会議が開かれた。
 そこにはラヴェルとレヴィンも同席しているのだから確かなことだ。
 だが……二人とも別の疑問を感じていた。
 国王クヤンの死の真相について、噂すらも流れていないのだ。
 現場に居合わせたホリンやフィンが沈黙を決めていることもあるだろうが、探ろうとする者すらいないらしい。
「緘口令ねぇ……いくらそんなもんを押し付けても噂くらいは流れるだろ、普通」
 そういうとファーガスは腕を組んだ。
「でもよ、それが本当だってならクヤンは何で死んだんだ? ほとんど国にも帰ってきてなかったんだろ?」
「それは、まぁ……ええと」
 激しく言葉につまり、ラヴェルは言い澱んだ。
 それを横目に引っ掛けると、レヴィンは世間話でもするような口調でさらりと言ってのけた。
「化け物と戦って殺されたのさ。フォモール族だそうだ」
「ちょっとレヴィン!? その言い方はちょっと……」
 思わず腰を浮かせたラヴェルをレヴィンは視線で制した。
「場所は北の岬、その海底に沈んだ神殿だ。見ていた奴がいる」
「そいつは……」
 相当考え込む素振りを見せ、ファーガスは半ば呻くように声を絞り出した。
「そんな大事になってたのか。それが表沙汰になったら大騒ぎだぜ。ケルティアは統一に当たってダナン族を旗印にしたんだ。フォモールっていやぁ、あいつらにとっちゃ宿敵だぜ」
 ダナン族というのは光の妖精の一族で、ケルティアにおいては神と同義に扱われる。
 ケルティアの統一において、彼らは人間達に手を貸したと伝えられている。
「しかしまぁさすが吟遊詩人だな。情報を仕入れるのが早いな」
「あの、そこはまぁ、その……」
 再びラヴェルは言葉を濁らせた。
 何と説明しようか考えあぐねていると、部屋の扉が開け放たれた。
 重さと冷涼感を漂わせるどことなく殺風景な城の景色に、ニニアの美しさがより一層際立っている。
「お待たせしてしまいましたわね」
 髪を高く結いなおし、清楚なドレスを身に纏ったニニアは音もなく歩を進めるとスツールに腰を降ろした。
 ケルティアでは王が飲み物を注ぐと癒しの効果が現れるという。
 ニニアはケルティアの王ではないが、クヤンがいない以上、このアルスターという一つの地方においては王も同然であろう。
 口の細い繊細な造りのポットに湯を注ぐと、呼んでもいない客人に紅茶を振舞う。
 歓待の証だ。
 姿勢を正してそれをカップに受けるとラヴェルは口をつけた。
 濃い目に入れられた紅茶から、程よい渋みと甘みがゆっくりと口に広がる。
「あれからずっと国内にいらしたのかしら?」
「いえ、一度大陸に戻って、マンスターから再びケルティア入りしました」
「まぁ、ではここへは陸路で? 大変だったでしょう」
 幾分垂れ気味の目を大きく見開くと王女はポットを持つ手を止めた。
 貴婦人を前にラヴェルは無意味に鼓動が早くなっていたが、何とか抑えるとうなずいた。
「ファーガスに案内してもらって西回りで歩いたものですから……ええと、何と言うか……疲れました」
 景色が良い場所は人跡未踏、あるいは交通の便が悪いところにあるというものだ。
 湖水地方はそれでも観光客が出入りするが、それ以外の野山は道などないに等しい。
「そういえば知らない方が増えていらっしゃるようね」
「おっと失礼」
 かすかな笑みを浮かべながらもどこか冷たいニニアの視線にファーガスは椅子から立つと柄にもなく優雅に一礼した。
 口さえきかなければ充分に貴公子で通用する。
「俺はファーガス・マクロイ。遍歴騎士だ。ところで女王様、有能な騎士はいらないかね?」
「あいにく間に合っておりますわ」
 笑みを浮かべながらもすげなく拒絶するとニニアは窓を開けた。
 冷涼な風が室内に新鮮な空気を送り込む。
「そうね、でも客人を追い出すような真似はしませんよ。しばしの滞在は構いません。部屋を用意させますからお泊りになって」
「そいつはどうも」



 それぞれがあてがわれた部屋に荷物を置くと、ラヴェルは夕刻の町へ散歩に出た。
 城の門の前で鉢合わせたファーガスと共に店を覗いて回る。
「そういえばファーガスさんてマンスターの前はどこにいたの?」
「ここさ。当時クヤンは留守だっけどな。その更に前はフィアナにいたこともあるぜ」
 どうやら相当な期間を流れ歩いているらしい。
 見た目は二十代の半ばから後半を思わせるが、もしかしたら意外と年齢を重ねているかもしれない。
 あまり個人的なことを尋ねるのもどうかと思うが、剣の腕が立つ以外のことはわからない。
 ラヴェルは思い切って尋ねてみることにした。
「ファーガスさんてどんな人なの?」
「俺? 見た通りのいい男だぜ」

 …………。

「……そーですね」
「……なんだよ、その反応は」
 とりあえず性格に難があるのはわかった。
 それ以上は何も尋ねずラヴェルは大通りを西に向かった。
 以前立ち寄った仕立て屋に、直しを頼んでいた服を引き取りに行く。
「はいよ坊や、毎度さん」
「ありがとう」
 丁寧にたたまれた赤い服を広げてみれば、山猫に引っかかれた傷はきれいに修復されている。
 これは故郷を出てくる際に新調した服で、シレジアの楽隊の制服と同じなのだが……一月ももたずに仕立て屋のお世話になった。
「せっかくだから着替えるかな」
 今着ている服と返ってきた服を見比べていると、ファーガスがしげしげとラヴェルを見つめた。
「ケルティア人としては今着ているキルトをそのまま勧めたいが……お前が着てるとマジで女みたいだな!」

 がしょん……

 思わず脇に抱えていた竪琴を床に落とす。
 叩きつけられたフレームが異音を発し、弦と共鳴して妙に虚しい音が響いた。
 店の奥で仕立て屋が吹き出したのを視界の隅に捕らえ、ラヴェルは無言で涙を流した。
 キルトは本来巨大な一枚布なのだが、今は各パーツごとに分けて仕立てられているものも好まれている。
 最も有名なのは、ひだと前掛けに折られた腰巻のキルトで、大陸の人間が見るとプリーツスカートのように見える。
 自覚しているが故に後ろ身頃のみのキルトを身につけていたラヴェルだったが、ファーガスの言葉に決心した。
「やっぱり着替える!」
 店の更衣室を借り、しばらく馴染んでいたアルスター高地風の衣服から元の服に着替えるとラヴェルは店内を見回した。
 様々な毛織物が彩り鮮やかに飾られている。
 どれもアルスター特有のチェック柄だ。
 よく見ればファーガスが銀の胸当ての上に肩から斜めにかけている掛け物も、うっすらとチェック柄が入っているようだ。
 ケルティアの人間にとってキルトは大切なシンボルなのかもしれない。
 日が落ち、やがてかがり火が赤く揺れ始める。
 エールの匂いと辻音楽師の歌を横に見ながら二人は城へ帰ることにした。



 灯りの乏しい城に誰かの声がこぼれた。
「凍える風は王に当たる」
 北から吹きつける風は冷たい。
 夜風に黒い城が余計に薄ら寒く感じられる。
 零れ落ちた豊かな髪をかき上げると、城の女主人はシャムロックをかたどったピンで留めなおした。
「ふん、これでうるさいのはカタがついたわね」
 執務卓の上には古語のびっしりと書き込まれた古地図が広げられ、何かの草木の灰が上に散らかっている。
 それをふっと吹くと厄介な掃除でも仕上げたかのような声を彼女は漏らした。
 地図にミーズの地名がかすれ消えていく。
 相当その地図は古いのか、レンスターの文字も消え入るほどにかすれ、マンスターの文字も完全に欠けて見えた。
「さて、残りはあの乱暴女の所か……まぁいいわ、また誰かさんが邪魔に入らないとも限らないし……後にしましょう」
 そうひとりごちると王女は立ち上がった。
 暖炉の明かりに金色の髪と半輝石の髪留めが赤く染め上げられて煌めいている。
「あら、お休みになりませんのかしら?」
 夜着を羽織り、一日の用を済ませたニニアは広廊下に出たが、窓の前に浮かび上がる影に目を留めると声を掛けた。
 青い闇が静かにたたずんでいる。
 三日月の薄い光が石造りの床に窓の桟をぼんやりと投影している。
「宵っ張りな方でな」
 そう答え、レヴィンは外に広がる影絵のような景色に目をやった。
 レヴィンの横に並び、ニニアもまた窓の外へ視線を向けた。
「ケルティアには秘境と呼ばれる場所がまだまだ残っている……ここは人間達の見知らぬ土地が数多くある国ですわ。ご存知でしょうけれど」
 ふ、と灯りがともった。
 ニニアの手に不思議な光が生み出され、夜の城内の景色を神秘的に浮かび上がらせた。
 彼女もまた高度の精霊使いであるようだ。
「ゆえに、人ならざる技もまた多く伝えられています。このように」
 貴婦人の手を離れた光がすっと空中を移動し、レヴィンに触れた。
 強い治癒を持つ魔法だ。
「実体に負った傷を幽体で包んで誤魔化している。相当な傷ね。隠し切れませんわよ」
 蒼穹で負った傷を見破られ、レヴィンは無言で胸に手を当てた。
 普通の人間なら死んでいるが、あいにく彼はそれ以上の存在を内包している。
 身体は人間のそれだが、そこに宿る魂は精霊セラフのものであるし、それ以外にも無理矢理詰め込まれたものが宿っている。
 あの時、ラヴェルを人質にされた以上、手出しは出来ず、切られるに任せるしかなかった。
 だが直前に虚空へ魂の欠片を投げ出し、それを一時的に自分の本体として、かろうじて死神をやり過ごしたに過ぎない。
 それとて一か八かだった。
 人になった彼に、意志のままに実体と精神体の切り替えができるのかどうか。
 それはあまりにも危険な賭けだった。
「気に食わん女だな」
 受けたはずの傷が癒えている事を感じ、胸元からレヴィンは手を離した。
「魔法の腕は認めてやる」
「あなたもかなりの使い手のようね」
 耳元に微かに落ちかかる髪に手をやり、ニニアはレヴィンの顔を見つめた。
 やがて夜の野を彼方に見、彼女は視線を戻した。
「アヴァロン、麗しき島。いえ、妖精の庭ケルティア」
 薄暗い灯りに照らされ、天井近くに掲げられている旗が微かに王国の紋章を浮かび上がらせている。
 シャムロックと竪琴をあしらった、美しい紋章である。
「もし貴方が」
 ニニアはどこか試すような光を視線に湛えた。 
 しばらく声を休めると、貴婦人は挑発するかのように、それでいて囁くようにレヴィンに言葉を投げかける。
「そうね、もし私の恋人になってくれたらこの国を差し上げましょう。もちろん、あの剣も」
 返事もせず黙って窓の外を見ているレヴィンに、ニニアはその言葉を囁いた。
「その瞳も治して差し上げましょうか」
「断る」
 目。
 魔性の証である、常に隠している片方の瞳。
 秘事を見抜いているらしい言葉に過剰なまでの速さでレヴィンは拒絶した。
 赤い目で相手を見据えれば、ニニアは面白がるように彼を見つめている。
「貴方は今のままで良いのかしら?」
 ケルティアの国は先の国王が死んでも不気味なまでに沈黙している。
 だが、知っているものはやはり知っているのだろう。
 クヤンがどうして死んだのか。
 レヴィンが常に隠している片方の瞳は、彼のものであって彼のものでない。
「悪いが俺は他人の手は借りん主義だ。それに……」
 言葉に冷たさと微妙な殺気を宿らせ、レヴィンは王女を鋭い目で射抜いた。
「あんたからは妙なにおいがぷんぷんするんでな」
 ニニアの顔に月の薄い光が差す。
 冷たい笑みを無言で浮かべる彼女を背に、レヴィンは暗い廊下を自室へ戻っていった。
 その姿が見えなくなるまでニニアはその場に立っていたが、やがて低い声で呟く。
「……生意気なフォモールめ」

つづく

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