がんばれ吟遊詩人! 〜ラヴェル君の場合2〜
第9話:銀波(前編)
ざわざわと湖面の水音は絶えることがない。
ラヴェルは銀色に光る窓の外から視線を戻した。
ニンフェンブルグへ身を隠してからもうじき二週間になる。
レヴィンは相変わらず眠り続けている。
「僕は一度戻るからね」
玉座を空けっ放しにするわけにもいかず、クレイルはブレスラウの城へ帰っていった。
眠っている相手に声を掛けても何も返って来ず、話をする相手すらいない。
窓辺に突っ伏し、ラヴェルは湖をただぼんやりと眺めて過ごしている。
(あー、そろそろ薪を補充して来なきゃか……面倒臭いなぁ……)
思考も行動も機敏に動かない。
更に数日経ち、暖炉の火が消えかけるとようやくラヴェルは城の外へ出た。
湖畔の町を抜け、湖を囲む森で適当な枝を拾い集める。
木々の間から、蒼銀に輝く湖面と、その上に羽を休める水鳥の姿が見て取れた。
「妖精の城、か……」
頑丈な城砦の造りでありながら非常に優雅なシルエットの小さな城は、美しくあるが湖上にただぽつんと建っていて、どことなく孤独感を漂わせてもいる。
「よう」
街道に通じる森の小路で、薪を抱えたラヴェルに声を掛けてきたのは旅装の男だった。
「ファーガスさん! よくここがわかったね」
「案内してもらったからな」
遍歴騎士の赤いマントの後ろには、用件を済ませてきたクレイルが立っている。
「ただいま〜。レヴィンの様子はどうかな? 変わらない?」
「まだ眠ってます」
妖精城へ戻ると早速火を熾しなおして湯を沸かす。
眠り人の隣室で三人はそれぞれ腰掛けた。
薄く入れた茶の湯気が白々と漂っている。
「妖精のまどろみって言ってな」
隣室の暗がりを紺の目で見ながらファーガスはそれを口にした。
「眠っちまったまま起きないのさ。ケルティアではたまにある話さ」
「妖精のまどろみ?」
「そう」
カップをソーサーに戻すとファーガスは窓の外を眺めた。
「妖精、まぁそれ以外の何かでもいいけどよ。その魔力に当たるとな、深い眠りに落ちちまうのさ。一見すると怪我がなくても眠りにつくし、怪我をした時には、傷が治ってもまだ目を覚まさない」
「そっか……」
そっと椅子から立つとラヴェルはレヴィンのベッド脇に腰掛けた。
彼のいつもの体力を考えれば傷はとっくに治っている頃だ。
毛布を少しめくってみれば、レヴィンの胸元にペンダントが見えた。
クリスタルの欠片である。
しかし、澄んだ姿はそのままだが、いつもの輝きを感じられない。
(意識がないってことなんだろうな)
試しにラヴェルは自分のクリスタルの欠片を近づけてみたが、やはり何の反応もなかった。
細波の音だけが耳鳴りのようにざわついて聞こえてくる。
「森の中にしてはデカイ湖だな」
「ニンフェンブルグ湖っていうんだよ〜」
隣室ではクレイルとファーガスが会話している。
「ニンフ……? 湖の貴婦人みたいなモンかね」
冷めかけた紅茶をファーガスは口に含んだ。
「ケルティアじゃ波の下には異世界があるってさ。妖精の国……ティル・ナ・ノグやマーグメルへの入り口があるとかな。妖精郷は現世とは時間の流れが違う。一度行くと、帰って来た時にゃ時代が変わってるんだとさ」
どこか遠くにそれらの会話を聞いていたラヴェルだったが、毛布を戻すと彼も隣室に戻った。
「よく寝てます。寝返りも打たないし」
「みたいだねぇ」
隣室を見やる二人を眺め、ファーガスはカップの中身を飲み干した。
「時間の感覚が違うだろうからな」
コツ、と微かな音を立ててカップがソーサーに戻る。
「一度眠ると長いぜ……ああいう存在はよ」
「そっか……」
部屋の隅のリュートにはもう埃が厚く積もっている。
「どんな夢を見てるんだろう……」
眠り続ける青い影を見つめ、ラヴェルは溜息をついた。
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小さな旅行かばんの中身は大量の書類だった。
珍しいことに紅茶の湯気が飲み忘れに薄れ消えていく。
「散歩に行ってくる」
持ち込んだ仕事に淡々と羽ペンを走らせるクレイルを横目に、ファーガスが城を出たのは夕方の少し前だった。
しばらくするとラヴェルも気分転換に外へ出ることにした。
湖上の木橋を渡り、湖に飛び出た岬へ上がると湖畔の町の石畳を歩く。
影が射した気がして見上げれば、木組みの家々の上を大きな鴉が一羽飛んでいく。
路地を抜け、石段を降り、湖城と対岸を眺めながらラヴェルは古いベンチに腰を下ろした。
森の女神エスニャをかたどった彫金のリラを腕に抱える。
その弦を弾けば、どことなく元気のない音色が細波の音にかき消されていった。
「……お前、本ッ当に竪琴ヘタクソだな」
「……あぅ」
砂利が石畳とこすれる音に振り返れば、いつの間にかファーガスがそこへ立っていた。
ダメ詩人ぶりを断定されてラヴェルはかくりと首を折ったが、ファーガスは気にとめる様子すら見せずに隣へ腰掛けた。
「綺麗な湖だな」
「うん……この湖には水の妖精が住むといわれているんだ。あの城は妖精城っていって、昔は遺跡だったんだけど、その上に今の城が建っているんだって」
銀色に輝く波を見ながら、ラヴェルは湖や城のいわれをかいつまんで語った。
ファーガスはうなずきながら聞いていたが、やがて姿勢を崩すと足を組んだ。
「ケルティアじゃ、湖には女王様が住んでるっていうぜ。前に話したかもしれないけどな」
わずかな風に銀の髪が微かに揺れている。
「なんでもアルスルにエクスカリバーを与えたのも湖の女だったとか」
「アルスル?」
「アーサーのことさ」
昔のケルティアの王の名前に、ラヴェルはファーガスが語る内容になんとなく見当がついた。
「エクスカリバーっていってな、名剣だそうだが……誰にも抜けず、岩に突き刺さっていたのを抜いて王になったって話と、妖精が鍛えた剣を湖の女からもらったって話と二つの説がある」
「くわしいんだね」
「俺も結構あちこち渡り歩いているんでね」
各地の城を渡り歩き修行を積む遍歴騎士は、その先々においていろいろな情報に触れる。
もちろんその中にはその土地その土地の伝説も含まれるのだろう。
剣で生きるか、歌で生きるかの違いはあれど、彼らの存在は吟遊詩人に近いのかもしれない。
「ちょっと前まではマンスターにいたわけだが、アルトニアにもフィアナにも……でも一番長かったのはコナハトかね?」
「コナハト?」
コナハトというのはケルティア最南部、コノート地方の古名である。
「じゃぁもしかしてホリンに会ったことある?」
ラヴェルはコノートに荒くれの知人がいる。
その名をケルティアで知らぬ者はいないだろう。
「ああ、ホリンか? 会ったことはないが名前は知ってるぜ。俺は赤枝には所属しなかったけどな。現地にちょいとイイ女がいてね」
「恋人?」
ファーガスは態度こそ砕けているが、黙って立っていればかなりの美形だ。
口さえきかなければさぞかし女性にもてるだろう。
「ははは、そうかもな。ま、お前じゃ取って食われちまうだろうけどな」
「……どんな人」
思わず呟き、ラヴェルは視線を湖に戻した。
無人の小船が繋がれたまま波に軋む音を立てている。
湖には自分達以外に人の姿はない。
「ああ、そういやぁよ」
不意にファーガスが話を変えた。
「ホリンで思い出したが、そいつがどうかは知らんが、ケルティアのそこそこ有名な勇士が軒並みぶっ倒れてるらしいな。噂くらいは知ってるか?」
「ううん、何も」
ラヴェルはケルティア内にちらほらと知り合いがいる。
コノートの荒くれホリンやフィアナ騎士団のフィンとは頻繁とは行かないまでもよく会うし、先日は加えてクールやロンフォール、コナルといった勇士が一堂に会する場にも居合わせた。
しばらく考えるとラヴェルは首をかしげた。
「この前、ホリンにあったけど元気そうだったよ。クールさんは前から具合が悪いって話だったけど出て来てたし」
「この前っていつ頃の話だ?」
「いつ頃だったかな……半年はまだ経ってないと思うけど」
「へぇ」
湖を斜めに見やるとファーガスは紺色の瞳をラヴェルに戻した。
「詩人の間で何か噂がないかと思ったんだがな。そうか」
水鳥の鳴き声がどこからともなく聞こえてくる。
「原因不明らしくてな。病気になるような連中でもねぇし。妖精のイタズラかね?」
「風邪でも流行ってるのかな?」
「いや」
考えあぐねるようにファーガスは頬に手を当てた。
「ぶっ倒れているのがなぜか有名な勇士ばかりなのさ。普通の民にはそんな気配は全然ねぇ」
そこで言葉を切るとファーガスはおどけてみせた。
「笑っちまうのが、この前のお姫さんを覚えているかい?」
「ニニア王女?」
「そう、あの気位の高そうなお姫さんに求婚した馬鹿がいるらしくてな、すげなく断られて帰る最中にぶっ倒れて、王都の堀にそのまま頭からドボンだそうだ」
確かにニニアは比類なき美貌の持ち主といっても良いだろう。
惚れ込んでしまう勇士がいてもおかしくあるまい。
「そいつはアルトニアでは名家の出身で、ほれ、クヤンには子供もいないしよ、何かあった時には玉座に手が届くだろうって噂の名士だったのさ。今じゃフラれた挙句に溺れたってんで有名になっちまったが」
「……哀れな」
いくら名士とはいえ相手は王女だ。
身の程を知らないと罰が当たるというものだ。
湖面の漣は絶えることがない。
無言で投げたパンくずに、白鳥だけが寄ってきた。
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草緑と枯れ草色が交じり合って揺れている。
濡れた葦の根元、城の基礎のさらに下に姿を見せているのは、古い遺跡の石材だ。
湖上の美しい妖精城はその麗しい見た目とは裏腹に強固な要塞でもある。
どこか湿気を帯びる空気の中、蝋燭の明かりが頼りなさそうに揺れる。
地下に潜っていく階段を覗き込んでいるのはラヴェルとクレイルだった。
妖精城にただ篭って幾日も過ぎたが、その日は二人ともまるで危険な野外を旅するような身振りだった。
「とにかく潜ってみよう」
「そうしましょう」
最初に気付いたのはラヴェルだった。
いや、口にはしなかったが様子から察するにそれ以前にファーガスも気付いていたのだろう。
誰もいないのに歌声のようなものが聞こえてくるのだ。
「なんだろう……」
ラヴェルは最初、空耳かと思ったがどうもそうではないらしい。
「ああ、妖精の歌だろう、どうせ」
雑踏のざわめきでも聞き流すような素振りでファーガスが答えたのだ。
彼はそれきり気に留めていなそうだったが、ラヴェルはなんだか胸がざわめいて仕方がない。
意を決すると城の今の主であるクレイルと共に歌声を探すことにした。
城の中や湖の周囲を歩き回り、怪しいのはどうも城の地下だということになった。
何せこの城の地下は古い遺跡なのだ。
蝋燭をランタンに移し、クレイルはラヴェルに手渡した。
城の東端、防御塔の地下から二人は遺跡に入り込んだ。
「まだ聞こえますね」
「うん」
湖の細波の音に混じり、声ともつかぬものがずっと聞こえ続けている。
歌のようでもあり、ただの音のようでもあるそれは、美しいが悲しげであり、神秘的であり不気味でもある。
こだまして多重に聞こえるそれは、湖の下から聞こえてくる。
その正体を確かめるため、ラヴェルはクレイルと共に城の地下へ踏み込むことにしたのだ。
ニンフェンブルグ城は、今では王家の別荘であるものの、クレイルとて地下の古城跡へ踏み込むのは初めてだ。
灯火をラヴェルに渡し、クレイルは己の杖頭に光を灯している。
魔力の灯りを先頭に、二人は階段ともつかぬ岩の床を注意深く下りていった。
地下は誰かの手で作られた通路であるようだったが劣化が激しく、殆ど洞窟と化していた。
小さな水晶や洞窟キノコが青白い光をかすかに放っている。
冷水と温水が混じりあい、伝い落ちる壁からは極わずかだが湯気が見て取れた。
「こんなことは初めてだなぁ」
歌のような溜息のような音が絶えることなくうっすらと響いているのを聞きながら、クレイルは暗い天井を見上げた。
「何の声だろうねぇ? 心地よくもないし、かといって気味悪いわけでもないけど……」
とにかく不思議な音だ。
周囲の山から流れ込む沢の水を集め、また自身も底から冷水と温泉を湧き出させるニンフェンブルグ湖。
湖岸には人間の町があるとはいえ、深い山と森に包まれたここは、妖精伝説があるとおり、非常に不可思議な力を感じる場所ではある。
「本当にニンフでもいるんですかね?」
「どうだろうねぇ」
半神半人とも言われる美しい女性の妖精族ニンフ。
不思議な音が暗闇にこだまする中、二人は慎重により奥へと歩いていった。
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寒くはないが常に涼しいのは山間だからか、それとも湖のせいか。
暖炉に薪を放り込むとファーガスは一人じっと揺らぐ炎を見つめた。
細波の音、小舟の軋む音、風が葦を揺らす音。
それらの音をファーガスは聞いていなかった。
彼が聞いている音はただ一つだった。
妖精の調べ。
ファーガスの馴染んだケルティアの妖精とは違うものの、何らかの精が彼らの楽を歌い奏でているのだ。
どこか物悲しさと憂いを含んだような声が絶えず響いている。
(何を歌っているんだ? ここの妖精達は)
妖精にも方言があるのか、それとも種族ごとに異なる言葉を持つのか、彼の故郷の妖精達とは違う言葉で歌っているようだ。
それでも精霊語を解するファーガスにはなんとなく歌の雰囲気だけは感じ取ることができた。
見知らぬ異郷へと旅立とうとする歌だ。
旅立つ者が歌っているのかそれとも見送る者が歌うのか。
より遠くの地へ、より水の深みへ。
より深く水の下へ旅と出でていく
今、親しんだ故郷に別れを告げる
波の中に道は示されるだろうか
透んだ水の歌を聞きながら
過ごした日々を思いに、ただただ寂しい
優しく潤うふるさとよ、愛しき友よ
見果てぬ彼方まで旅は続くだろう
一人、心がさざ波のように震えている
それでも思い出を抱いて
より遠くへと泳ぎ出す
過ごした日々に、故郷に、そして友に
今別れを告げよう
二度と帰る事なきふるさとへ
何よりも青きふるさとへ
消え入りそうな声でも重なり合えば深い響きとなる。
複雑に絡み合い反響しあう歌ならぬ歌を聞きながら、ファーガスはゆっくり立ち上がった。
窓を開ければ水気を含んだ風が緩やかに通り過ぎていく。
「ったく、お姫様の護衛とかならまだしもよ」
毒づきながらもファーガスは、今、彼が一人で護衛するべき相手を振り返った。
人のようで人ではないかも知れぬ存在。
ふと、放置されていたリュートと青みを帯びた剣に目を留め、ファーガスはそれに近づいた。
「剣なんて持ってたのか」
勝手に手に取るとファーガスは刃を鞘から引き抜きかけて手を止めた。
涼感を帯びた空気が漏れたかと思えば、剣はいつの間にか濡れ、澄んだ滴を流している。
「ふうん、さながら水の剣ってか」
青みがかった澄んだ刃はまるで氷か水晶のようだ。
「ま、俺には必要ないがね」
そう呟くとファーガスは剣を戻した。
やがて何かを思い出したように耳をそばだて、横たわっている者に声を掛ける。
「あんたには妖精の歌はどうに聞こえているんだ?」
もちろん眠り続ける相手から返事はないが、ファーガスはそう問いかけると椅子に腰掛けた。
騎士と詩人の違いはあれど共に放浪する身だ。
遠き異郷へ旅立つ妖精の歌う歌。
地にまかれた水のようにそれはじんわりと心に染み込んでくる。
囁くような妖精の声が湖全体を包み込み、複雑に響き合っている。
普通の人間には聞こえぬかもしれない妖精の歌。
それを確かに聞きながらファーガスは一人ただじっとしていた。
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地響きのような重い音が暗闇の中に響き続けている。
地底の中をこだまし続けるためか、その音はぼんやりと輪郭のない音であった。
魔力の灯りとランタンの灯りがかすかに揺れる。
「何の音ですかね?」
「轟音なんだろうけどここまで反響してくぐもった音になると、なんだかわからないねぇ」
黒い岩石の床が濡れ、灯りを白く反射して光る。
己の持つ灯り以外は完全な暗闇の世界だ。
慎重に灯りで周囲を探り、クレイルは立ち止まった。
杖に両の手を添える。
「開けた場所になったみたいだね……灯りを強くしようか」
杖頭がより一層輝いた。
青白い光が地底の姿を照らし出す。
「うわぁ……」
目だけでなく口まで開けてラヴェルは辺りを見渡した。
それは圧巻であった。
城一つがすっぽり入ってしまいそうな巨大な空間が目の前に広がっている。
人の手によるとは思えぬ美しい石柱が無数に天井を支え、荘厳な神殿のようにすら見える。
その巨大な一つの空間の奥に轟音が鳴り響いていた。
「いってみよう」
音が近づくにつれ、空間は神秘的な微光に輝き始めた。
石壁や天井、床に細かく白い物がきらきらと輝いている。
ラヴェルが試しにつま先でこすると、それはじゃりじゃりとこすれた。
「塩? ですかね?」
試しに舐めてみるが、塩辛くはない。
「んー、まぁ何らかのミネラルではあるだろうねぇ」
クレイルもそれを指でこすってみたが無味無臭であるようだ。
やがて二人は轟音の下まで辿り着いた。
無言で目の前の光景をただ眺める。
まるでレナスの大瀑布だ。
地中を震わせ、白い飛沫を上げ、流れ落ちているのは巨大な滝だった。
大地の底へ続くかのような深い裂け目に、崩壊するような勢いと圧力を持って大量の水が落ち込んでいく。
「こんなものが湖の下に……」
ゴクリとつばを飲み込むとラヴェルは飛沫に濡れた頬を拭った。
鉱物を含む水が作り出した造形なのか、滝の付近は白く、それでいて透き通るような色艶の石筍にびっしりと覆い尽くされて輝いていた。
それは水晶にも似た美しさだ。
冬に氷結した滝がこのような姿となるが、それが地中の闇の中に輝いている。
「ラヴェル、あれ見て」
不意にクレイルが指を滝つぼに向けた。
あまりの深さに底を見て取ることはできない。
だが、その暗がりに光るものにラヴェルも気付いた。
「鬼火?」
いや、炎の形ではない。
ましてそのように陰気なものでもない。
しかし確かにそれは青い光だった。
うっすらと消え入りそうにはかない光が幾つか暗闇の中を舞っている。
「聞こえる……」
その光を見ながらラヴェルは呟いた。
人には知れぬ何かの言葉。
滝の轟音に混じり、寂しそうな歌声のような水音が紡がれている。
レヴィンやファーガスなら聞き取れるのだろうか?
人間にはわからぬ妖精の歌。
ぼんやりと輝く滝つぼに、やがて青い光の一つが吸い込まれていった。
残された光はしばらく名残惜しそうにその場を舞っていたが、やがて薄れ消えていく。
声なき声のような歌が遠ざかっていく。
「……水の精、なのかな?」
やがて滝の轟音がこだまする中、その歌も聞こえなくなった。
白く輝く滝だけが地中に音を立てている。
「この水はどこへ行くんでしょうか」
「さぁねぇ……遠い旅になりそうだ」
大地の深みへ消えた水は、光も浴びずにどこか知らぬ場所へ流れて行くのだろう。
森の木々の根をくぐり、山を越え、広大な大地の底を去り、やがてどこかへ湧き出すのか、それとも海へ下るのか。
無意識に持ってもいない竪琴の弦を弾きながらラヴェルはただひたすら水が消えていく様を見つめていた。
「そろそろ帰ろうか」
「あ、はい」
かけられた声に我に返ると、ラヴェルはクレイルの後を追って地上へと戻り始めた。
その足が不意に止まる。
暗闇には何も見えない。
だが、残された妖精の歌う物悲しい声が確かに聞こえたような気がした。
湖畔に葦が揺れている。
「……去って行ったな」
何かの存在が遠ざかるのを感じ取るとファーガスはゆっくりと紺色の瞳を開いた。
湖が川となって流れていく……西の方角へ妖精は旅立って行った。
「世界の西の果てには楽園があるってかい……さて、どうだかな」
世界の西、オケアノス。
中津国の中央であり大部分を占める北の大陸。
その西には海が広がり、その彼方には楽園が浮かんでいるという。
妖精の国アヴァロン。
常若の園、美しき不死の世界。
そこには多くの妖精族が住み、世を謳歌し、歌い踊り、老いも病もなく、様々な薬草や不思議な霊力を持つ花が咲き乱れるという。
伝説を追い、大陸からオケアノスを渡ってきた人間をファーガスは今まで幾人ともなく見てきた。
ケルティアの島国は大陸の人間からすれば未知で神秘的な土地であるらしい。
人間が知る限り、西の大海に浮かぶ世界の果ての土地は妖精の庭ケルティアなのだ。
「妖精の庭、か……その名はダテじゃない。ダテじゃねぇが」
窓の向こうに銀波が煌めいている。
それを無表情に眺めながらファーガスはどこか皮肉げに呟いた。
「楽園でもねぇよ」
つづく
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